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裏と表:ジャニーズ問題とレトロブーム

故・ジャニー喜多川氏による途方もない性加害問題のゆくえを、私も興味をもって見守っています。ジャニーズ事務所にかぎらず芸能界全体に、権力関係を利用した性加害、あるいはその一歩手前のセクハラパワハラが、昔から数えきれないほどあったとよく聞きます。私もたぶんそうなんだろうと思っています。

そうした旧弊は、昭和のみならず平成以降も根強く残っていましたが、近年の人権意識の高まりや#MeToo運動の広がり、そしてダイバーシティが当たり前になっていく大きな流れの中で、次々とあぶり出されてきました。ジャニーズ問題もその一環なのでしょう。

昭和はマイノリティや弱者が抑圧される社会だったし、男尊女卑の社会でした。昭和のメディアコンテンツに触れる機会の多い私も、それは感じています。平成にもそういうところがありますが、昭和のほうが強い。

とくに週刊誌は女性蔑視と性的消費がひどくて、胸やけがするほどです。「これだから女は」とすぐにひとくくりにして、バカにする。女は頭が悪い、単純だ、嫉妬深い。男と同じように振る舞う女は生意気だ。そんな論調が雑誌のいたるところに見られます。

まあ、週刊誌は社会に飼い慣らされた男性たちがストレス解消に読むものだから、組織の桎梏(しっこく)から比較的自由だったオンナコドモを下に見ないとやってられなかったのでしょう。それは理解しますが、それにしても今の大学生には読ませられない質の悪さで、そうした昭和の負の側面は否定されるべきものです。

一方で、昭和のデザインや昭和歌謡を再評価するレトロブームの風潮があって、ブームを起こした若者たちはもちろん、実体験のある中高年たちにも、昭和を懐かしみ、趣味として楽しむ人がたくさんいます。

私たちは昭和が嫌いで、昭和が好きでもある。昭和的価値を否定して排除する気持ちと、昭和的価値を肯定して取り入れる気持ちは、同じコインの裏と表に見えます。良い面も悪い面も渾然一体となって、昭和というひとつの異文化を構成していたわけですから。

身近な異文化は、良いところと悪いところがどちらも濃く見えるので、愛憎うずまく複雑な感情を抱きがちです。韓国文化なんかも同じで、韓国嫌いと韓国好きが同じ集団に混在するさまは、昭和に対するプラスとマイナスの感情が絡み合う状況に近いと感じます。

昭和も韓国も、私たちと似てるけどちょっと違って、私たちに近いけどちょっと遠くて、キラキラした魅力的なものです。若者にとって、昭和と韓国は同じようなものなのかもしれません。

話を昭和の負の遺産に戻しますと、古い価値観の亡霊を少しずつ供養していくのが令和なのでしょう。パワハラセクハラだけでなく、さまざまなものが変わろうとしている。

高校野球もそうかもしれません。慶応高校の新しさに世間の注目が集まったり、猛暑の中で試合をする是非が議論されたりするのを見ていると、これまでになく、何かが劇的に変わりそうな予感を抱きます。

私は毎年のように甲子園に行っていた高校野球好きですが、ひとむかし前までは、古き良き高校野球の文化を守りたい一心でした。しかしいまは、それを変えたらどうなるだろうという、好奇心のほうが強くなっています。

焦熱地獄のなかで、軍隊のように規律よく訓練された丸坊主の少年たちが、数万人の猛烈な大歓声の中で浮き足立ちながら、負けたら終わりの明日なき戦いを繰り広げる。それこそが夏の甲子園だという考え方は、少しずつ、その輪郭がほころび始めている気がします。これから10年が高校野球の転換期ではないでしょうか。もちろん、最後は当事者たちが決めることですが。

自民党政治も昭和の負の遺産だと個人的には思いますが、なかなか変わらないですね。「男たちの国盗り物語」みたいな、それこそ昭和の週刊誌の連載小説のような古くさい世界観は、若い世代にあまり響かないと思います。男と男が肚を割って酒を酌み交わしながらものごとが決まっていくような、義理人情の政治の世界は別にゼロにならなくてもいいですけど、縮小し、その重要性を薄めるべきでしょう。

古い社会秩序を壊すことと、新しい社会秩序を構築することは、同じスピードで進むとはかぎらず、どちらかが先に進んでバランスを崩しがちです。そのたびに逆行が起こったりして歩みは停滞しますが、なんとか無事に変わっていってほしいものです。

現代は、社会、文化、技術、あらゆるものが連動して、相互に影響を与えながら変化しているので、現在地の把握も、今後の方向性を占うのも、非常に難易度が高い。私もひとりの教師としてその把握につとめ、学生と一緒に未来を構想していきたいと願っています。

ジャニーズの記者会見を見ながらあれこれ考えているうちに、最後はこんなところに行き着きました。