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レトロ本を自分で書いてみて

このたび、関西大学の永井良和さんらと一緒に『失われゆく仕事の図鑑』(グラフィック社)という本を出しました。

今ではまったく(あるいはほとんど)見られなくなった121の職業を、写真とイラスト付きで紹介する本です。私は次の27項目を執筆しました。

トロリーバス/し尿汲取り/食堂車・ビュフェ/アイスキャンデー売り/花売り娘/蕎麦屋の出前持ち/DP屋/サンドイッチマン/ニシン漁/ミルクスタンド/新聞社の伝書鳩/金魚売り/炭屋/売血/キーパンチャー/ヤマガラのおみくじ引き/電話交換手/ポン菓子屋/歌謡番組のビッグバンド/三助/写植オペレーター/エスカレーターガール/ちり紙交換/乾電池の自動販売機/蒸気機関士・機関助士/野菜の行商/連絡船

なんだか脈絡のないラインアップですが、このチョイスは次のように決まりました。

まず、編集部から候補リストが示され、私はその中から個人的に興味があって、なおかつ詳しくないものを19個選びました。あえて詳しくないものを選んだのは、この機会に自分の文化史の知識を広げたいと思ったからです。

さらに、私のほうからも書きたい項目として9個を追加提案しました。これもすべて興味があるけど詳しくないものです。計28項目、ちゃんと調べないと書けないものばかりという厳しい条件のもと、執筆を始めたのが今年の7月末でした。

それから約3か月、国会図書館がコロナで抽選予約制になり苦労しましたが(5日分申し込んで1日しか当たらない)、なんとか27項目を書きあげました。残念ながら1つだけ完成しなかったものがありますが、その話は最後に。

個人的な記憶がないものをどう書くか

この本は大学の研究者が中心になって書いてはいますが、本の性格としてはいわゆるレトロ本・ノスタルジー本に属するものだと思います。

私は長年レトロ本を収集・研究してきました。その成果を『昭和ノスタルジー解体』(晶文社、2018年)という本にまとめたこともあるくらい好きで、いつか自分でもレトロ本を書きたいと思っていました。今回、その願いがかなってとてもうれしいです。

よいレトロ本は、主観的な記述と客観的な記述のバランスが美しいものです。個人的な思い出を語るパートと、資料にもとづいて客観的に整理するパートが、互いを引き立て合うように絶妙のバランスで配合されている。これがよいレトロ本です。

しかし私が担当したのは、個人的な思い出がないものばかりでした。トロリーバスに乗ったこともないし、売血したこともない。思い出話を書いたのは、中学生のころ塾に行く前にかならず立ち寄っていた「ミルクスタンド」くらいで、あとはすべて客観的な歴史記述に終始しています。

客観的な記述だけだと事典や年表みたいで味気なく、レトロ本としての魅力は半減します(そのほうがよいという人もいますが)。このままでは読み物として面白くないと考えた私は、面白さを出すためにとにかく「答えを出す」ことを重視しました。

失われゆく仕事というコンセプトなのだから、その仕事が何年ごろどんなふうに全盛期を迎えて、そして何年ごろどういう理由で衰退したのか、具体的な「答え」が書かれていなければ読者の溜飲は下がらない。そこをうやむやにしないようにとにかく気をつけました。

分かるまで調べる。そして答えを出す。答えを出せば読み物として成り立つ。これが今回、自分に課したルールでした。

その成果がどこまで出ているか分かりませんが、よかったらぜひ手に取って確かめてくださるとうれしいです。27項目すべてにいちおうの答えがあります。

他の執筆者のみなさんは違ったルールで書かれているので、私だけ記述の具体性が強すぎて浮いているかもしれませんが・・・まあ、それが今回の私の立ち位置だった、ということでしょう。

キーパンチャー訪問

執筆にあたりいろんな資料を集めましたが、いちばんのお気に入りはキーパンチャーに関する資料です。

キーパンチャーというのは戦後・・・いや、せっかくだから本文を引用しましょう。

 戦後しばらくのあいだ、大企業や行政機関には膨大なデータを扱うためのパンチカード・システムというものがあった。顧客情報、資材管理、納品記録、給与計算などのさまざまなデータをすべて数値に変換して、0~9の数字が並んだパンチカードに穴をあけて記録していく。これを専用の機械にかけると、集計、分類、並べかえなどを高速で処理してくれる。1950年代前半から導入され、経営合理化の旗手として注目された。
 パンチカードをさん孔する(穴をあける)技術者をキーパンチャーと呼ぶ。次々と集まってくる伝票類を数値に読みかえ、タイプライターのような機械で入力していくと、セットしたカードがパチパチとさん孔されていく。キーパンチャーは女性の職業とされ、当時の新聞・雑誌では「若い女性に向く」「女性の仕事の最尖端」と評された。
 事務職として会社に採用された女性の中から、適性のある人がキーパンチャーに配属された。大手企業には常時30~50名が所属していて、1962年の統計で全国に約2万人いたという。
(『失われゆく仕事の図鑑』111ページ)

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要はコンピュータなどのデータ処理システムにデータを入力する仕事ということです。これはネットで拾ったアメリカの写真ですが、左がデータを入力する人、右がそのデータを検算する人ですね(たぶん)。1960年代以降、穴をあけるメディアはカードから紙テープに変わりますが、さん孔の仕事自体は変わらずに続いていきます。

当時の記録映画にキーパンチャー室の様子が映されています(4:16~)。
「東京」(英映画社、1964年)

私はキーパンチャーという仕事が存在したことは知っていましたが、どんな仕事なのかあまりよく分かっていませんでした。国会図書館で1960年代の資料を調べていくと、「最先端の仕事」というプラスイメージと、「心身に不調をきたしやすい」というマイナスイメージとが入り混じっていた状況が見えてきました。

とりわけ腱鞘(けんしょう)炎とノイローゼは不評です。一日何時間もひたすら入力しつづける仕事ですし、機械部屋は相当おおきな音が鳴り響いていたようですから、いろいろと病む人が後を絶ちませんでした。

そこで、企業はキーパンチャーの福利厚生に心を砕くようになります。その一環として、ビジネス雑誌でベテランキーパンチャーの紹介記事を載せる企画がありました。1963年の『マネジメントガイド』誌に連載された「キーパンチャー訪問」です。

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キーパンチャーという仕事は一流企業にしかないものだし、しかも近代経営の最前線の部署ということで、みなさんそれなりにプライドを持ってやっていたことがよく分かります。

もちろんこの記事はキーパンチャーとして成功した人だけに取材したもので、一方で仕事になじめなかったり、心身に不調を抱えたりして悩んでいた女性もたくさんいたでしょう。どんな仕事にも光と影があります。

キーパンチャーに関する雑誌記事や調査報告は、圧倒的に「影」の部分に注目したものが多いので、こうやってポジティブにとらえる記事は貴重で、彼女たちの等身大の姿をより多角的にとらえる助けになりました。とてもよい資料だと思います。ありがとうマネジメントガイド。

余談ですが、この雑誌、カタカナだけまったく違うフォントセット使ってませんか?こんなパターン初めて見ましたが、当時はよくあったのでしょうか。

ヨーヨーチャンピオンを見つけ出すも・・・

担当した28項目のうち、たったひとつ原稿を落としてしまったのが「ヨーヨーチャンピオン」という項目です。

前回のnote「夏休みの調べもの」にも書きましたが、1970年代にコカ・コーラ商品のロゴが入ったラッセル・ヨーヨーのブームが起こったとき、全国の町に赤いブレザーを着た「ヨーヨーチャンピオン」を名乗る外国人が現れ、商店街などで高度な技のデモンストレーションをおこないました。

彼らはラッセル社のデモンストレーターだったようですが、それ以上の詳しいことが分っていません。彼らはいったいどこの誰で、どんな資格でデモンストレーターになったのか?日本語の出来ない彼らを誰が引率して全国を回っていたのか?長年の疑問に答えを出したいと思っていました。

しかし、さっぱり分からない。コカ・コーラ社に問い合わせても分からなかったし、図書館であれこれ検索しても何の資料も出てこない。

困り果てた私は、最後の手段として日本でデモンストレーターをやった人がFacobookとかで思い出を語っていないかを調べることにしました。思いつくかぎりのキーワードであれこれ検索したところ、見つけたんです!日本でデモンストレーターをやっていた人のFacebookを。

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ヨーヨーじゃなくて同じラッセル社のバンバンボールをやっている様子ですけど、当時の写真をヨーヨー仲間たちとシェアしていました。

コロンビアの方だったので、英語で質問を書いてからそれを翻訳アプリでスペイン語に直して、DMで送ったんです。しかし・・・

残念ながら、締切までにお返事が来ませんでした(今も来ていません)。あと一歩のところまで来たんですが、仕方ないですね。

こうして私の執筆は終わりました。