見出し画像

大谷翔平にみる理系と文系の違い

大リーグ7年目のシーズンを送る大谷翔平が、移籍したロサンゼルス・ドジャースで活躍を続けている。

今シーズンの大谷は、OPS(出塁率+長打率)、安打数、得点、打率、本塁打、打点など、多くの主要部門でナ・リーグのトップ3に入っていて、まさに大活躍である。

その一方で、得点圏打率が低いとか、3ランがないとか、チャンスに弱いことがしばしば批判されている。

たしかに7月13日時点では、打率.312(ナ・リーグ2位)に対して、得点圏打率.239(ナ・リーグ54位)で、チャンスに打てないことが客観的に示されているようにもみえる。


しかし、統計学的手法をもちいて野球を客観的に評価する「セイバーメトリクス」の観点からは、得点圏打率はいまいち信用できない指標らしい。

そもそも、得点圏(二塁または三塁)にランナーがいる状態で打席に入ることが少なく(4打席に1回くらい?)、1年分のデータでは分母が小さい。ましてや、シーズン途中だとさらに分母は小さいので、統計学的に評価できる数値とは言えないという。

じっさい、主要打者の毎年の得点圏打率を調べると、他の打撃指標とくらべてバラつきが大きく、年ごとの相関が低いという。1年単位の得点圏打率は、高くても低くても、何とも評価しづらいのである。

そんなわけで、得点圏打率が打率よりも低い大谷のような打者は、生まれ持って勝負弱いというよりは、たまたま調子の良い時期にあまりチャンスが回ってこなかったとか、たまたま接戦の試合終盤でいちばん強いセットアッパーをぶつけられることが多かったとか、なんかいろいろあって結果的に下がっている可能性が高いのである。

だから、この試合のこのチャンスに打てるか打てないか、という個々のシチュエーションを判断する材料としては、得点圏打率は心もとないというわけだ。


以上は私がネットで調べたにわか知識だが、俗説に対して、科学的に根拠がないとキッチリ示すのはいかにも理系の議論で、とても説得力がある。

と同時に、そこで話が終わってしまうのがいかにも理系だな、とも感じる。理系の人は「その指標は非科学的だ。だから信じるな」で話が終わるのだ。

文系の人は、むしろそこから話が始まる。「なぜ私たちは、そんな非科学的な指標を信じるのか」ということに興味がわいて、得点圏打率を信じると野球観戦はどのように豊かになるのか、という方向に議論が広がっていく。

「チャンスに強いバッター」や「チャンスに弱いバッター」というのは、野球選手のキャラとして面白く、そういうのがあったほうが試合を見ていて楽しいし、盛り上がる。物語もたっぷり読み取れる。

統計的に有意かどうかは関係なく、というかむしろ、統計的に無理があるくらいのほうが、キャラや物語としては魅力的で、消費のしがいがあるのだ。だから私たちは、しばしば理系の警告を無視して、非科学的なほうに走る。

そうした人間の性質を追っかけて、野球をつうじた人生のありようや、幸福を考えるのが文系の学問なのだと思う。チーム側に立つのが理系の野球論、ファン側に立つのが文系の野球論、ともいえる。


麻雀にも似たようなところがある。私は30代の頃、とつげき東北さんの『科学する麻雀』という本を愛読していた。この本は、とつげき氏の膨大なネット麻雀データを駆使して、勝つための手筋を統計学的に解き明かしていくものだ。

いま手もとに本がないので記憶に頼るが、私の印象に残っているのは「麻雀に流れは存在しない」という話で、有利な配牌やツモが連続的に現れる(あるはその逆)などの「流れ」を、多くの人は体験しているが、じつは統計学的に流れは存在しないから、信じても無意味だという。

これもやっぱり、理系はそこで話が終わるんだな、という感想を抱いた。

文系は、科学的に存在しない流れやツキを私たちはなぜ信じてしまうのか、それを信じることで、私たちの麻雀体験に何がもたらされるのか、といったことを考える。

たとえば調子よく勝っている流れで、跳満と倍満どちらも狙える手が来たとき、流れを信じないなら確率が高い跳満を狙う。しかし流れを信じるなら、ロマンを追ってあえてチャンスの薄い倍満を狙う、などの違いが出てくる。

流れ否定論者なら、たとえその倍満が上がれたとしても、数百半荘、数千半荘のスケールで見れば、そういう打ち方をしているとトータルではマイナスにしかならないから、よくないと主張するだろう。

しかし流れ肯定論者は、たとえ数百半荘レベルではマイナスになったとしても、チャンスの薄い倍満を上がったという「感動」はいつまでも残るから、それでいいのだと考える。

理系的には、明確な仮説があってそれを証明していくという手順しか取れないので、「麻雀は勝つためにやるもの」という前提を崩すことができない。だから、感動を目的とする流れ肯定論はそもそも前提が間違っていて、話が噛み合っていないというか、論外である。

しかし文系的には、それこそが考察・分析の対象となる現象なのだ。


確率にさからって生み出される感動を、小説などのフィクションに落とし込むのは芸術家の役割である。阿佐田哲也や伊集院静がそうだ。

一方、感動のメカニズムや、感動が人間や社会に与える影響などを論理的に解明していくのが、人文系や社会科学系など、いわゆる文系の研究者だ。

非科学を否定する科学が理系
非科学を肯定する科学が文系

ひとことで言えば、こういうことだろう。どちらも科学には違いないが、アプローチや目的がだいぶ異なっていて、いい具合にすみ分けているというか、互いに補完しあっているように思う。理系と文系はいいコンビだ。

大谷の得点圏打率をめぐる議論から、私はそんなことを考えた。


アメリカの野球論者には、今年の大谷のすばらしい成績を見て、来年以降も大谷は打者に専念すべきだと主張する人がいるらしい。そのほうが合理的だからだ。

はたしてそうだろうか。私たちがスポーツを見るのは、非合理な瞬間を目撃したいからではないのか。合理的な判断がスポーツの基本なのは言うまでもないが、スポーツの真の醍醐味は、それを超えた非合理さにあると思う。

ドジャース経営陣もきっと、我々は大谷が非合理だから投資したのだと、反論するに違いない。


ヘッダ引用元:国立研究開発法人産業技術総合研究所
https://unit.aist.go.jp/mcml/rg-orgp/uncertainty_lecture/normsdist.html