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選べる。迷える。選択肢がある愉しさ。

選択肢を用意することは、
ご飯屋さんでメニューを見ることや
選択的夫婦別姓や同性婚といった社会的な話においても大切だ。

1人ひとりの選択肢に自由があることで、
自分の判断に自信を持てるし、迷いはあっても腹を括って前に進めるし、
仕事など、物事を前に進められる。

選択的夫婦別姓や同性婚の話。

議論が起こってから随分と時間が経っているが
なかなか、認められない選択的夫婦別姓や同性婚。

結婚の際、名字を自由に選べなないなかったり、
添い遂げたい人を自由に選べられない結婚制度。
(そもそも、結婚の目的が生殖であることに理解しがたい、、、)

もし仮に選択的夫婦別姓が認められても、婿(男性)の名字を選ぶ人が多い場合、
これは、認める意味はなかったのだろうか。

それは、ちがう。

選ぶ人が多くても、それは単なる結果論。
選べる自由があった場合となかった場合で
それまでに至るプロセスの見え方は大きく変わるはず。

これは、ご飯屋さんでメニューを選ぶ際にも言える。

のり弁と唐揚げ弁当。

(ご飯屋さんに限らないが、)メニューから食べたいお弁当を選ぶところから、
食事のたのしい時間は始まっている。

“今日は唐揚げ弁当の気分だったけど、のり弁もいいなぁ。”

と思えるか、
あるいは、限られたメニュー、
品切れのメニューからご飯を選ぶのとでは、たのしさは変わってくる。

もし仮に当初の予定である、唐揚げ弁当を選んだとして、
のり弁という選択肢があって選んだのと、そうでない場合において、
僕たちの反応は変わらないのだろうか。

それはちがう。

選んだ時もそうだし、迷って選んだ後も、
のり弁という選択肢を用意された上で
食べる唐揚げ弁当の方が美味しいかもしれない。

もし仮に迷わずに唐揚げ弁当にしても
その意思決定の中身を毎回、正確にかつ客観的に判断できる訳でもない。

同性婚などとは次元の異なる話だが、
主観に委ねず、客観的な立場になって考えて
選択肢を複数用意することが、自由のクオリティ、多様性を尊重する手段になる。

シンプルな話、そのプロセスに迷える、考えられる余白が
用意されているかで受け手の気持ちがどうなるのか、という話だ。

これに気付いたきっかけは、夜道に散歩へ出た日のこと。

ヘッドフォンをつけて夜道を散策。

散歩に出ようと思った時、10分ほどの散歩の予定なので
最初は、ヘッドフォンを持って出歩こうと、

“ただ、10分だけなんだったら
夜の空気や空をたのしんでリラックスするのも悪くないかもしれない。”

迷った結果、ヘッドフォンと携帯をおいて出歩くことにした。
久しぶりにちゃんと見た、夜の青空。
色素を失ったような見た目の白い雲も、
絵本の世界のような雰囲気で悪くなかった。

そんな感じで、たのしい夜道の散歩の途中
普段だと目のいかない部分を見れたのも、
選択肢が用意された上で、選んだからだと気付いた。

迷える余白があるから、「自分で、決めた。」と思えるのだと。
自分で決めたから、いつもと一味ちがう創意工夫が生まれるのだと。

自由と多様性。

これでいいのかなと思っていたりしても、複数の選択肢を用意すること。
自分にも、そして相手にも。
もし、結果的に予想していた候補で事足りていたとしても
それは結果論の話であって、
選択する、考えるプロセスの中ではちゃんと比較があったはず。

言い換えると、
自分にとって自信のある、通ってほしい選択が通るため、説得力を上げるためにも
選択肢は用意してあげることが大事。仕事に限らず、デートなどでも。

選べる愉しさは、自由と多様性の象徴。


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