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結局どっちなのよ

森林資源を守るために紙の無駄遣いはやめましょう

私は90年代に小学生だったのだが、同年代の方はこんなことを習ったり読んだりしたのではないだろうか?このこと自体を嘘だとも思わないし、今でも順守して紙の無駄遣いはやめるべきだと思っている。

ところがどっこい、このところエコな紙パックが巷に溢れている。プラスチックよりもエコだそうだ。たしかに、マイクロプラスチックをはじめ海洋のゴミ問題を見ればそのこともよくわかる。しかし、いわゆる「ポリ袋」は石油製品の副産物から生まれ、ダイオキシン類も出さないエコな商品だったはずだ。

時代によって正しいことの価値観が変わることは良いのだが、それは総括があってこそのことで、その場の雰囲気で正しいことが変わってしまうというのは非常に恐ろしい。そこに思索がないだけに、ぬるりと思想が塗り替えられてしまうように感じる。

仕事でも似たようなことが言える。私が勤めている出版産業は、大型書店の圧倒的物量と在庫が一世を風靡し読者を捕まえた。今でこそ1000坪クラスの書店は珍しくあいが、私が入社する前は200坪でもそこそこ大きい書店だと業界紙でも取り上げられ、1000坪なんて大きさは書店業として成り立たないといわれたこともあるそうだ。その後ネット書店が台頭したことによって、在庫量や調達力でウェブにかなわないということがわかると、1000坪を越えるような書店の新規出店は見られなくなった。そして独自性や体験などを求めているようになったと感じる。

しかし、これは書店が大型化するはるか前、すでに西武百貨店がかの有名なキャッチコピー「おいしい生活」であらわしたことではないだろうか。しかし、そのコンセプトを押し出しニューアカデミズムをけん引した人文書棚を誇ったリブロ池袋本店はもうない。大型店に対するこのカウンターパートは結局ないものねだりではないかと勘繰ってしまう。

大型店の台頭と衰退は、00年代以降、出版産業自体がただ本を並べていただけに過ぎないのだと表しているようにも見えてしまう。そして、出版する側もただ本が並べばよいと思っていたのだろう。この人と一緒に売っていこう。この書店にくるお客さんの心に刺さるようにしたい。そんな思いがこちら側になかったのだと。思いのない仕事が気が付かずにはびこってしまえば、それを振り切るのは難しい。

いま、本を売りたいのか、そうでないのか、書店を取り巻く環境がよくわからない。少なくとも、日本国内で言えば、生産人口は減り続ける。労働力は補充できたとしても海外の人間であり、国内の和書の需要は減り続けるだけ。海外の方が日本に帰化して日本人となったとしても、その子供の需要が見込めるのは30年以上先だ。

それでも本が出る。きっと。紙であれ電子であれ、本という知識伝達デバイスは失うことはできない。失うときは、我々が滅びるときだと思う。

本を読んでしっかりと売ってくれる人はもちろんいるし、そういう店も知っている。大型店にもそういうやつらがいる。パーツがかみあうためにやることがまだまだある。

この仕事、夢があるのやらないのやら。

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