見出し画像

帰る場所は今この場所

「夏休みはお父さんの田舎に1週間ぐらい帰ったんだ」

そんな同級生の言葉が妙にうらやましかった。多摩の北のはずれに住む私にとって、故郷はこの場所でしかなかった。祖父母も近所に住んでおり、その父母の実家も車で行ける範囲だ。父方の祖父の墓が大月にあるが、そこも墓参りに行く程度の縁しか残っていない。

私は長男で、母が22歳の時に生まれているので、幼いころの祖母は、「ぽたぽた焼き」のおばあちゃん像のような人物ではなく、しゃっきりと元気だった。そんなことも手伝ってか、多摩湖の近くや野火止用水、都立薬用植物園など自然豊かなところを散歩に連れて行ってもらった。幼いながらによく歩いたものである。桜、梅、名も知らない花々を見たり、どこから来たのか野火止用水になぜか住んでいる鯉にパンくずを食べさせたりしていた。多摩湖の近くの森は緑が少し深いが、野火止用水のあたりはよく手入れされた林なので、木漏れ日で明るい穏やかな林だった。

一方の祖父は車好きだったので、ガソリンを入れる時など僕を連れて行った。新青梅街道のとある交差点にあったシェルのスタンドだった。ガソリンを入れると、祖父は日産グロリアの鍵をスタッフに預け洗車をしてもらう。スタンドのオフィスの2階は待合室になっていて、そこには、ゴルフのパターの練習台がおいてあった。祖父はパターの打ち方を教えてくれたが、さっぱりだった。多分、缶ジュースも僕に買ってくれたんだと思う。2階から車が出たり入ったりしているのを眺めていたのかなもう定かな記憶はない。夏のガソリンのにおいだけは覚えている。

小学校入学までは、祖父母の家に住んでいた。入学するあたりでアパートに移った。引っ越しの時は父が仕事で使っていたトラックに荷物を積んで引っ越しをした。引っ越したといっても同じ市内だ。荷物を降ろし、祖父母の家にもどるトラックの荷台にのって風を受けた思い出は忘れない。団地の間の道を走っていくと、道沿いに街路樹がトンネルのように緑を携えている。まだ平成も始まったばかりで、おおらかさが残っていた。この団地は、戦後に建てられた平屋タイプの団地で、風呂はなく、各々が庭に勝手に風呂をおったてているようなクラシックスタイルだった。中学生のころから立て直され、みんな高層のアパートになってしまった。一部はいまも手持無沙汰の空き地になっているのは、近くを通る人に平屋の団地があったことを思い出させるためなのかもしれない。

小学校の終わりに、いろいろあって家庭が半壊し、野火止用水の近くのアパートに引っ越した。中学生活をおえ、高校、大学とその用水路沿いに学校に向かった。用水路が近いので、冬は湿気ってしまうことが多い家ではあったが、春は薫風が吹き、夏はホタルがひかり、秋は落ち葉の甘い香りがする環境は嫌いではなかった。とくに、秋の乾き始めた風が木々を揺らし、落ち葉を巻き上げると、綿あめのようなにおいがかすかに鼻孔を抜けていくその一瞬に一年を感じることができたのは幸せだった。

幸いなことなのだろうか?私にとってふるさとは遠くあって思うものではない。

#ふるさとを語ろう #多摩


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?