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「正解」≠「最適解」

こんにちは、こはるです。
今朝は冷え込みましたが、昼間は穏やかに晴れてお日様のポカポカがなんとも言えず気持ちの良い一日でした。
こんな日は、猫になって屋根の上に座布団でも干してそのうえでお昼寝してみたいなあ、なんて思います(笑)


さて、この間久しぶりに読んだ本のことと、そこから諸々つぶやきを。

中学生くらい?からずっと好きな写真家の星野道夫さんが書いた「旅をする木」。
数年ぶりに読んでいたのですが、今までになく本に書かれている様々なことが、心に静かに沁みわたってきて何とも言えない感動を感じていました。

10代のころ、生きづらさを感じているという自覚もなくて、でもどうしても周囲と自分の間に感じる違和感とのバランスが取れなくて、どうしていいかわからない、と感じていたのをなんとなく覚えています。
星野道夫さんを知ったのは、そんなころだったかな?
当時はただ写真と文が好きなだけでした。
星野道夫さんの文と写真を通して、ただただアラスカという、日本とはかけ離れたように感じる遠い北の地に、半ばあこがれと心の逃げ場を見出していたのかもしれません。


閉塞感というのか重苦しい、自分一人ではどうにもできない、でも目を背けることも難しい様々なコトが世の中を覆う今、この本を読み返したのは、呼ばれたのかなあ、という感じでした。

今回読み返した中で、とても心に残った一節があります。

 「あと五年で二〇〇〇年を迎えようとしている今、私たちはすごい時代に生きているなあと思います。資源の枯渇、人口問題、環境汚染・・・・・・ちょっと考えただけでもある無力感におそわれます。それは正しい答えが見つからないからでしょうか。けれでもこんなふうにも思うのです。一つの正しい答えなど初めから無いのだと・・・・・・そう考えると少しホッとします。正しい答えをださなくてもいいというのは、なぜかホッとするものです。」(星野道夫著.旅をする木.文藝春秋,2005,p50)

この一節を読んで、私はなんだか少し肩の力が抜けました。

ただでさえ情報にあふれている現代は、「何が正解か」だけを考え求めることについ注視しがちですが、本当に大事なことはそれだけではないはず。

そもそも、未来というのは何が起こるのか、確実なことは誰にもわからないし、その時その時に自分が思う最適解を選択していくしかないわけです。その選択した最適解が、その課題・問題・疑問・・・について「正解」だったかどうかは、もしかしたらずっと後にならないとわからないかもしれません。
逆に、絶対に間違いだと思っていたことが、そうではない場合だってあります。

大事なのは、自分自身で考えて感じて、そうしてその時その時の行動を自分自身で選択していくこと。
間違えたと思ったら、また選択しなおしたらいい。
正解じゃなかったと思ったら、そのことを素直に受け入れ、選択しなおす勇気を持つこと。
これは小さなことから大きなことまで、どんなことにも言えることだと思います。

今、地球環境は、多くの生き物たち(もちろん人も含む)がこれまでと同じように暮らすには、過酷な状況となりつつあります。
温暖化や気候変動・・・の是非はともかくとして、多くの人間の活動によって地球に影響を与えていることは確か。

暮らしを便利に快適にすることを目指して、様々な技術革新が進んだその当初は、その便利さ快適さ・・・それらを実現する技術・・・といったものがその時の最適解だったのでしょう。もちろん、その恩恵は大きなもので、それらに頼って生活しているのも確かですから、それが必ずしも悪、というわけではなく。

けれど、その当時の「最適解」は今これからの「最適解」ではないでしょう。

様々な意見、考え方、科学的データ、思想・・・がありますが、私は多くの生き物たちが幸せに暮らせる地球で生きていきたい。
だから、今自分が思う「最適解」を選択していこうと思うのです。


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