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8月20日 親父には……【今日のものがたり】

「先日は大変失礼いたしました」

 バーテンダーが男の前にカクテルを差し出す。

「私はまだなにも注文していない。それに、失礼とはなんのことだ。失礼された記憶はない」

 男は薄桃色のカクテルを見つめ、目を細める。

「……桃缶をいただきました」
「元気になったのだろう?」
「それはもちろん。娘はあの日から桃缶が大好きになりました」
「ならばそれで良いではないか。どこに失礼が生まれる」

 目の前のカクテルを持ち上げた男の口角がすこしだけあがる。

「……せっかくここへ来て下さったのにすぐ帰らせるかたちになってしまったので」
「なにをいう。家族を守るのが親父のつとめであろう」
「……あなたもそうなのですか」

 男はカクテルを一口のみ、その強いまなざしをバーテンダーに向ける。

「私が親父に見えるか」
「……難しい質問ですね」
「親父には見えないと、正直に話しても良いのだぞ」
「そんな、ことは……」
「いいのだ。実際、私は親父ではない。そういうものにはもう、なれぬのだ」

 男はカクテルを飲み干すと窓のほうへと視線を移す。

「あの……」

 困惑するバーテンダーをよそに、男はカウンターにコインを置くと静かに立ち上がった。

「桃というのはおいしいものなのだな。新作カクテルとしていけるのではないか?」

 そう言って男は、バーテンダーの返答を聞くことなく店を出ていった。

 謎だけが残る。
 男はなにを背負っているのだろうか。

 そう、何かを背負っているようにバーテンダーには思えた。
 それを知る日はいつか来るのだろうか。

 わかっているのは、なにがあってもあの男にはカクテルを差し出すということだけだ。

 今宵のように。

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