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5月23日 恋文を書くために僕は【今日のものがたり】

 初めて里子(さとこ)さんの書いた字を見たとき、僕は衝撃を受けた。

(めっちゃ綺麗な字……)

 字を見て言葉を失うなんて本当、あとにも先にもあのときだけだった。
 ペン習字でも習っていたのかな? と思ったけど、後日さりげなく聞いてみたら習っていないと教えてくれた。

 里子さん曰く、ほかの人が見る可能性のあるときは丁寧に書くようにしていて、自分用のメモとかは自分がわかればいいので丁寧を意識することはないらしい。

 僕は僕が書いた、ほかの人が見る可能性のあるメモを見つめる。
 お世辞にも綺麗とは言えない。まぁ読めるは読めるけど、というレベルだ。
(自分の字ってどこで形成されていくんだろ……)
 なぜ僕の字はこんな字なのか。黒板に書いた先生の字? それもあるとは思うけど、いろんな先生のいろんな字を見てきているわけで、この先生! と断言できるものはない。それに、うまいといえない僕の字を先生のせいにするのは良くないよな。



「戸村(とむら)くんって字が綺麗だよね」

 声をかけられて僕は我に返る。里子さんの弟である高志(たかし)さんだった。
「え、本当ですか? よかった」
「いや、常々思っていたんだけど、この値札のプレートとかチラシの字とか戸村くんの直筆なんでしょう?」
「そうです。でも、いまの僕の字は、里子さんの書く字がとっても綺麗だからですよ」

 僕が里子さんの字を見て衝撃を受けてから10年近い年月が過ぎた。僕はあのとき、決意したことがあった。
 里子さんに気持ちを伝えるとき、ちゃんと言葉でも伝えるつもりでいたけれど、手紙を書こうと考えた。そう、いわゆる恋文だ。
 でも、こんなクセの強い字で書いたら気持ちをしっかり伝えることはできないと思った。ちゃんと、まっすぐ、この思いを伝えたい。だから僕は練習した。里子さんの綺麗な字をお手本にこっそり練習したのだ。
 
 そうして僕の字は生まれ変わった。

「そうなの? でも里子が、戸村くんの字のほうが綺麗だから任せてるって言ってたよ」
「僕に任せてる……僕のほうがきれい……」
(里子さんが僕の字をそんなふうに思っていてくれたなんて……)
「戸村くん、なんか顔がゆるんでるけど」
「……すみません! 嬉しくて、つい」

 里子さんに文を書こう。結婚してから一度も恋文(てがみ)を書いていないことに気づいた僕はそう心に決めた。


 

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