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8月18日 約束された未来なんて【今日のものがたり】

「氷口凪斗選手 支配下登録のお知らせ」

 そんなタイトルで球団のホームページに僕のことが載った。一ヶ月前のことだ。
 三桁の背番号だった僕は、新たな二桁の背番号をいただいて、今、一軍にいる。夢のような世界だと感じていた場所に。

 育成選手でもプロ野球選手であることは間違いない。でも、支配下登録されて、一軍の試合に出られるようになることが本当のスタートだと僕は思っていた。だから、すごくうれしい。そして、すごく怖い。

 この一軍のベンチにいる誰よりも僕は明日の一軍が約束されていない。そんなの当然なんだけど、ずっとここにいたいと思う。でも、緊張が不安をつれてくる。唇がかぴかぴに乾いている。
 それでも僕は、いま僕ができる最大限のプレーをして、結果を残して、アピールするしかない。やるしかないんだ。

(唇が乾いているってわかってるだけでも初出場したときよりはマシかな)

 そう思えたら少しだけ気持ちが和らいだ。

「氷口(ひぐち)、出塁したら代走いくぞ」
「はい!」

 試合の終盤、僕はベンチ裏で身体を動かしている。いつ、なにを指示されても大丈夫なように。
 今日は、代走。打席にたっている選手が出塁したら僕の出番がくる。


   *      *      *


 私の兄がプロ野球選手になった。
 厳密にはもう2年前からプロ野球選手なんだけど、一軍という枠組みのなかに入ることができるようになった、ということらしい。
 
「らしい、じゃなくて、凪斗(なぎと)は本当に一軍の選手なのよ」

 母は、兄が“支配下登録”されたことをものすごく喜んでいた。いや、ずっと喜んでいる。このところ毎日のように出場したときの試合を繰り返し見ているから。
 私は……うれしいというか、こそばゆいというか、なんというか、まだよくわからない。不思議な感じなのだ。

 確かに今年は二軍の試合でスタメンで出ることも増えていて、先月なんて私が見ても、活躍している・結果を残しているなとわかるくらいで、そうしたら下旬に兄から支配下登録されると連絡があったのだ。

 兄は8月に入ってから一軍登録というものをされて、今もそこにいる。今日の試合は始まっていて、どこかで出番があるかもしれないと母と一緒に中継を見ている。

「ねぇお母さん、私たち以外でお兄ちゃんのこと応援してくれる人っているのかなぁ?」
「なに言ってるの。育成選手だった頃から熱心に応援してくれている方たちもいるのよ」
「そうなの?」
「お母さん、こっそり試合を見に行ってたから、知ってるの」
「いつの間に……」
「ふふふ。きっとその方たちも今の凪斗のことを喜んで見てくれているはずよ。だって凪斗はいつも楽しそうでしょ」
「楽しそう……」
「楽しそうに野球をしている選手を見ていると、こちらもすごく楽しくなるじゃない」

 確かに兄は、家にいるときより、野球をしているときのほうが表情は豊かに思える。

「今は初めての一軍で緊張しているんだろうけど、それでもフィールドに出ると野球が楽しいって表情になっているから。そこに結果もついてくれば……」
「代走に出て盗塁決めたりとか?」
「そうね。凪斗には約束された未来があるわけじゃない。でも、凪斗自身の力で輝く未来は作っていける。だから私たちはそれを見届けましょう」
「輝く未来……」
「そう。もしかしたら、今日このあと凪斗が出場して、そのときのプレーでファンになってくれる人がいるかもしれない。そう考えると、とってもワクワクしてこない?」

 中継でベンチが映り、兄の姿が見えた。帽子をかぶってユニフォームを着ていて、隣の選手と何か話をしている。プロ野球選手だ。

 家にいるときのお兄ちゃんと同一人物なんだけど、やっぱり不思議だ。でも、なんだか心が熱くなってくる。これまでもワクワクすることはあったはずなのに、初めてそういう気持ちになったみたいな感じがする。

「……がんばれ、お兄ちゃん」

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