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【読書記録】東北の奥深さと底力を見た思いの書籍二冊

たまたま借りて読んだ本が、続けて東北地方を巡り見聞き取ってきた件という内容であり、つくづく東京や関西の人たちが思い描くであろう東北像とは違う、かねてよりの力強さ・たくましさだけでなく、想像より更に何倍も敬虔でひたむきで、一方では先進的であり尖ってもいる実像を見た思いがしたので、読んでいて感じたこと考えたことを、まとめて書きたく思います。
二冊とは、【速報的読書記録】として過去記事に書いた
『荒俣宏妖怪探偵団  ニッポン見聞録 東北編』(荒俣 宏、荻野 慎諧、峰守ひろかず 著)
と、その後で借りてきた
『魂でもいいから、そばにいて 3.11後の霊体験を聞く』(奥野 修司 著)
です。

『荒俣宏妖怪探偵団  ニッポン見聞録 東北編』

この本で巡る場所・ものに関し、大きく関わってくる人物が二人。
佐々木喜善と宮沢賢治、共に岩手県の出身です。

岩手で妖怪といえば『遠野物語』そして柳田國男が不可避、というのが妖怪にそれなりに関心をもつ世間一般の人たちの認識であろうと思います。
しかしながら、柳田は遠野という地からすれば他所者であり来訪者で、日本民俗学の創始者と目されるものの、民話の聞き取りと整理だけをやっていたのではなく帝大卒の官僚であり、過去記事でも書いた気がするけど『遠野物語』は文学調に美しい言葉で書き直されているものだという事実も。ここで思い出していただきたいのは、西洋での童話・民話収集として知られるのがグリム兄弟による『グリム童話集』だが、グリム兄弟は所謂知識層であり、民衆が語り伝えてきた素の民話をありのままに書き残したとは言いがたいという話。
だからこそアラマタ先生は、今回の旅の目的を
「柳田國男が岩手方言を削除してきれいな日本語にしたあとの『遠野物語』を、もういちど岩手の方言で聞き直すこと」
と述べていらっしゃった。実際、遠野出身の佐々木喜善は『遠野物語』を読んで「まるで西洋の物語を読んでいるようだった」と驚いた感想を書き送ったというのだから・・・

研究において大事なことの一つは「常識を・定説を疑え」ではないかと。常識・定説の上だけを何度ローラー的に往復しても、それはきっとどんなに遠くまで飛んだつもりでも結局仏様の手の上から出られていなかった孫悟空の話にも通じるというか、新しい発見は出ないと思うのですよ。奈良在住の文通友達さんに、研究者が「これが何なのか、さっぱり…」という遺跡からの出土物などを時々一般公開している話を教えてもらったことがあり、「それは面白いな」と思ったのです。非専門家には知識という縛りがないから、謎とされている事物を自由な視点と発想とで見ることが出来、意外な説明を思いつきうるのです。あるいは、それが長年謎とされていた事物の実像を知る突破口となるのかもしれない、と。

話がやや逸れました。
今回の旅では、主に岩手県内の寺院や旧家、博物館を訪ねては、妖怪に係る遺物(角や牙など体の一部と言われるものから、所謂ミイラまで。更には書籍や絵画なども)と対面し、所有者・研究者と意見交換をする。
妖怪の〇〇、たとえば河童のミイラなどは、それこそ日本各地に残されており、現代科学をもってすればそれが何らかの既存生物からの作り物であることが多いのが判明してしまうし。
文書のみで残された件についても、江戸時代までくると寺子屋の件もあるけれど、それなりの人口が読み書きが出来る社会になり、博物学の知識が広まってくるのと重なるのか、妖怪について残された記述もだいぶ精度が上がってくるというか。より的確かつ多項目に特徴を述べるようになり、結果として現代の知識との照合がしやすくなり、ひいては「おそらくこの〇〇は××だろう」と推測できるように。。
そうなると、ほんと河童が正体不明…両生類っぽくもあり、別件では爬虫類、別場所では哺乳類の特徴を備え、といった具合で、一つの生き物とは言いがたいほど特徴が多すぎる(苦笑)。「とりあえず、この方面で正体不明なモノは、ざっくり『河童』」に放り込んでいたというのが全く否定できない状況。でもまあ、きっとそれで良かったんだろうなと。。
とはいえ、おそらくは火難除けとして寺院の屋根裏に置かれたらしい「河童のミイラ」の正体は猫であったろう、と結論されても、御堂が140年もの間火災に遭わなかった事実が存在し、河童の異称の一つに「水虎」があるからトラと同じくネコ科の猫を河童として屋根裏に上げたのではないかとの仮説。
そうなのだった。科学だと、どうしても「実際にそれが存在するのか否か」の議論になりがりで、〇〇のミイラとかを科学的に分析した結果が既存生物と一致したら最後、「それ見たことか。〇〇なんて実在しないんだよ」になってしまう。
日本の妖怪だけの話じゃない。世界規模でのUMAも然り。
これは良くないよねぇー、と。
私としては、「それを目撃した人物は、それを確かに妖怪だと感じ、周囲の同時代人も信じる信じないは置いといて共通の認識を持った」「これは〇〇の体の一部だ、と何百年と消えることなく伝えられてきた」という事実のほうを重要視し大事にしたい思いなのです。なので、「断言できない事案はそのままにしておく」という探偵団の姿勢に安心と共感を抱いたのでした。

民話=その地域オリジナルと考えがちだけども。
何かのきっかけで元ネタが入ってきて、地域色を入れて展開、完結する…とでもいうべき図式があるのかと。これは東北に限らず。そう考えると、各地に類話・類型が存在している件もストンと落ちるというか。
養蚕などの神・オシラサマの由来を語る伝説は、岩手における有名な言い伝えの一つでしょうが、元になっているのは中国の『捜神記』で、娘が「父親を連れ帰ったなら結婚する」と言ったら馬が娘の父親を連れて戻って来たと…しかし、東北のオシラサマでは娘が馬を恋い慕っていたがゆえに、殺されてしまった馬を前に嘆くのだけども、中国版での娘は「馬であるお前と人間の私とが結婚できるはずがないのに」的に殺され剥がされ晒された馬の皮を踏みつけて言うのであり、馬が「約束は約束だ」とでも言うように皮は娘を包んで飛び去ってしまう・・・って話で(※ここは過去に読んだ本でのウロ記憶を、ネットで見付けた「柳川順子の中国文学研究室」記事で確認とりつつ書いている)。馬と娘とが蚕になって戻ってくるというくだりから結びは同様じゃないかと思いますが…どうかな(弱気:爆)。
この、いわば中国のオシラサマの話は『南総里見八犬伝』における八房のモチーフでもあると。八犬伝では、姫の父が「敵将の首を取ってこられたなら、娘の伏姫をお前の嫁にやろう」と言い、八房は首をくわえて戻ってきて里見家は救われるが…約束を違えることは出来ず、八房は姫を背に乗せて山へと入っていき、という流れとなっていますね。
そうなんだ・・・一つのモチーフからちょっと変えの多種多様な作品へと派生するっていう図式なんだなぁと。だから完全100%オリジナルなんてもはや夢想、今となっては更に夢想、、と(爆)。

宮沢賢治もというか、教師業の傍ら作家・執筆活動をしていた人ですが、宮沢の作品にはちゃんと科学的裏付けがあるというくだりに妙に納得したり。
宮沢は純粋培養文系畑の文筆家・作家ではなかった。科学的見地をしっかり持っていた、という認識が自分にあったからです。それは、以前図書館で『宮沢賢治の元素図鑑 作品を彩る元素と鉱物』(桜井 弘 著)を借りて読んだことも大きく影響しているかと。
あと、この本では岩手の宮沢と和歌山の南方熊楠との繋がりについて考察するアラマタ先生と宮沢賢治記念館の牛崎俊哉学芸員との対談も収められており。これは後述の『魂でもいいから、そばにいて』中にも出てくることなのですが、カツオ漁は和歌山から岩手へ伝わったという…そして三陸はリアス式海岸という地形から陸路での交流は限られたが目の前の海を介し他の集落と関わりを続けていて「陸路より舟が早い」という話もあり。
東北の太平洋側沿海部ではもっと遠く、外国とも開国前から繋がりを持っていた(それはいわば国家非公認の私交易)という件。さらに岩手・和歌山と共通してクジラと関わる地ではあるが、東北太平洋側では浜に打ち上げられたクジラは有難く食べていたものの、紀州(和歌山)などのように獲りに出てまで鯨を食べる文化ではなかった、だから東北には「鯨の怪」の話はないのだろう、と東北大学の川島秀一先生が述べておられてたり。
付け加えるならば、それが有名税というものかもしれないのだけれども、やはり宮沢に関しても「賢治最愛の人は誰か」という憶測が多々なされてるんだなぁと…私から言わしてもらうと「誰だっていいじゃないか。それを知ってどうするつもりなんかね」なのだが(爆)、研究家やファンは「そこを知らなくては、きっと彼の作品の本来の意図だったり背景を知り得ないんじゃないか」として突き止めたくて仕方ないんだろうと。でもですね…歴史や文学の研究ってのは個人情報を穿ほじくることに専心してはいけんし、度を超すと学問じゃなくてそれこそ芸能記者、もっと行き過ぎると過激なパパラッチやストーカーになってしまうんじゃないかって危惧があるのですよね私には(辛辣)。現在生きている人物ではなく過去の人だから掘りたい放題、それでいいのだろうか。誰にだって、触れられたくないところが一つ二つあるだろうと…自分には無いのかねと(さらに辛辣)。
それはそれとして、何人かの女性の名が挙がる中で、賢治が創作同人誌仲間の一人である保坂嘉内に「あなたが手紙をくれないので私はちょっと憤っています」「わが友よ、我が全行為を均しく肯定せよ」「我を棄てるな」と、単なる一同志・一友人に宛てたにしてはかなり熱情的と取れる手紙を書き送っていた話が挟まれ、「うわ、これは腐女子には刺さるんでないか」と思ってしまったのは内緒ですよ(ダダ漏れ:自爆)。あぁでも、だいぶ前に読んだ『武士道とエロス』という本だったと思うのだけど、ノーベル文学賞受賞者にして林修先生もその優れた言語表現を絶賛の文豪・川端康成に関してもそういう…同性の同学の学生に云々な話がありましたっけ…。とはいえ、日本では古来ずっと同性同士すなわち男男・女女の関係が歓迎されないというか異端というかだったかと問えば、決してそうではなく、むしろ時代や場所によっては市民権獲得済の公認事項とでもいうべき状況であったように見受けられ。だからこそ「武士道とエロス」という本のタイトルにもなるわけで。今現在は御存知のようにダイバーシティやジェンダーフリーなどの考え方が広まってきてますから、また一時のマイノリティに対する無理解や偏見という事情は多少変わった部分もあるのでしょうか。。

何事も無いように話を戻します。
この本では、多数の学者・研究者・学芸員という各方面のスペシャリストが登場し、時に探偵団と熱く語り合うのですが。
個人的には美術解剖学者の布施英利先生…
美術解剖学の知識で人間の肉体の死から土に還るまでを描く九相図を冷静かつ鋭い視点で読み解く一方で、
「死の瞬間というのがそもそもあるのか、という問題があるんです。脳は死んでも心臓は動く。心臓が止まっても髭なんかは生える」
だから
「生と死の境は明確に決められない」
更には、
「でも、人間って、生まれた時から死に向かっているんです。戻ることはできない。死と生の境界は曖昧なんですよ」
そして
「哲学的な話ですが」
で締めくくる。
ファンになりそうです…いやもう既にファンかも。。

そして。第三章の末尾での、探偵団の一員である地質・古生物学者の荻野慎諧先生の言葉が、私には象徴的に響きました。

「人魚が輸出入の対象であったという事実を知って、ようやく得心できた気がします。今ではオカルト扱いされることでも、当時は真摯に向き合うべき対象だったということを、実感できたというか……。自然科学と神学が切磋琢磨してきたように、サイエンスとオカルトは互いに刺激し合うことができる。それが進歩に繋がるのかなと思います」

『荒俣宏妖怪探偵団  ニッポン見聞録 東北編』第三章 より

アラマタ先生が博学なのは既知でしたが、他の先生方も勿論それぞれの分野に詳しいプロフェッショナルなのだけれども、他方面の素養も併せ持っておられ、教養豊かな、かつ洞察力を備えた方々であることが伝わってきます。こういうの見ちゃうとね、何か一つのものにはやたら詳しいとか秀でてるけど他のことはほぼすっからかん、それでも偉そうに語りまくってる「一点主義」な『マニア』は軽いな、周囲が見えてないんだよな、自分なら鼻で笑っちゃうな、、と思ってしまいますよね……
訪ねてきた場所や読破した本などの数を誇るのだけども、内容の整理整頓がなされてなくて、必要に応じてすぐには情報引き出せない人とか見ると失笑しちゃう(酷評)。大学に行って、お勉強は大して出来るようにならなかった自分だけども、やはり参考となる本を探して読んでレポートを書いてたとか(当時は現在と違い、ググって易く済むものではなく泥臭くアナログ作業だった)、卒研・卒論で実験・観察データの整理と論文の順序立てについて学んだ経験は、今に活きていると思います…それこそ訪ねて会ってきた巨樹巨木の写真整理とかに(爆)。
だから、そういうの見かけると「この人は手書きレポート経験のない高卒なのか、それともデジタル・ネットで楽できるようなった後の時代の大学卒なのか」と思ってしまう(素)。

に、しても。東北というか、この本に関して言えば岩手には妖怪の遺物・逸話が非常に多い。それは、そういうものを切り捨てられない当地の精神性もあり、収集・分類するだけの財力と知識も存在していた、という…冒頭でも述べたように、他地域の人間が想像する以上に「多方面に豊か」であった証拠で。
東北といえば、幕末から明治初期の列藩同盟もあるように、新政府軍に敵対した地も多く、そういうところには官立の学校がなかなか建たなかったが、当地の人たちが自力で建てたといい、石川啄木や宮沢賢治、金田一京助(言語学者で、子・孫も言語学者)が学んだ盛岡中学も官軍に対抗して建てられたもので、東北を訪ねた小説家・徳富蘆花が「すごい中学が建っていて、洋服を着た子供の学生が大勢居た」と驚いたのだという話。
東北の「深さ」、そして人間の先入観のもつ悪い点を色々感じた本でもありました。

『魂でもいいから、そばにいて 3.11後の霊体験を聞く』

東日本大震災の被災地での幽霊話。
そう言ってしまうと、以前読書記録に書いた『震災後の不思議な話 三陸の〈怪談〉』(宇田川 敬介 著)と同じになってしまいますが、共通点と相違点とは、やはり存在している印象を受けました。
どちらも、これまで自身の経験を語れなかったであろう被災地の人々、あるいは震災で亡くなった人の縁者の話に真摯に耳を傾けて記録したものではあります。
『魂でもいいから、そばにいて』にも、生き残った者と逝った者、双方の悲痛な思い、やるせない思い、そして強い愛情とが溢れています。
ただ、こちらの方が、ご遺族にうかがった話が多いように思われ、それゆえか、より痛切な言葉が連なります。

本の冒頭、序章ともいえそうな「旅立ちの準備」の中で、著者の奥野さんは、宮城県で二千人以上を看取った、がんの専門医で自らもがんに侵されて宣告された余命十ヶ月を過ぎた岡部医師と「死の間際に亡くなった両親が現れた」等の「お迎え」と呼ばれる現象について話し、さらに医師が亡くなる三カ月ほど前にも会い、話す中で「阪神淡路大震災ではそれほど語られなかった霊的体験が東日本大震災ではなぜ多いのか。被災地でがれきの中に位牌を探した被災者の多さから、東北に今も在る霊魂を信じる感覚、宗教心が根付いているからではないか」と思い、さらに医師から「『あんたとこのおじいちゃんが、大街道の十字路に出たそうよ』と聞いて、自分もおじいちゃんに会いたくて毎晩その十字路に立っているという老女の話」を語られ、「たとえ死者であっても大切な人と再会できて怖いと思う人はいない」、死者と逢いたいと願う生者の物語が聞いてみたい、と腰を上げた…
と、経緯を述べました。
この本の中核は、正にそこ、「死者と逢いたいと願う生者の物語」なのです。ここが、遺族に限らず多種の境遇・立場からの視点による「幽霊話」が集められている『震災後の不思議な話 三陸の〈怪談〉』との違いでもあるのだと。無論、それに優劣をつけるつもりなどありません。どちらも、何かの形で遺さねば・語り伝えなければ、あまりにも切ない記憶の数々であることに違いはないのですから。

妻と幼い次女を亡くした亀井さんは、震災の二週間ほど後で見つかった二人の遺体を燃やしてしまうことに悩んだものの、遺体の傷みから限界を感じ、山形の友人の協力でその四日後に山形で火葬にできたのだと(当時から、被災した東北太平洋側の県では火葬が追いつかず、日本海側の隣県などに運ばれた遺体も相当あったという話がメディアで伝えられていました)。
そして、その夜。夢に、しゃがんだ妻に寄り添うようにしてこちらへと手を振る娘が現れたのだと。その後も、妻は何度も現れる。
「死にたいと思ったときによく不思議な体験をします」と亀井さんは言います。残された長女の為に、自分がしっかりして生きねばならない。けれども悲しい、心が折れそうになる――そんな時には夢に妻と次女が現れるのだと。
遺族の会では、亡くなった子が夢で「再会」するたびに成長していると話す人もいるそうですが、亀井さんの妻子は何年経とうと亡くなったときのままの姿なのだと。
「納骨しないと成仏しないと言われますが、成仏してどっかに行っちゃうんだったら、成仏しない方がいい。そばにいて、いつも出て来てほしいんです」
この本に収められた話の中には、これと同様のことを語った遺族が多いのです。
傍にいてほしい、どこかへ行ってほしくない。
「千の風に」じゃないけれども、お墓には亡くなった家族は居ない。
もうあの子はどこかの家の子として生まれ変わっているのだろうと思う、それでも……。
今も傍に居る、繋がっている、と感じている。
・・・と。
「愛する人がいない世界は想像を絶する地獄です」
そう言いながら、亀井さんは時に現れる妻と娘に支えられるように、今を生きているのでしょう。そして、これからも、自身に与えられた時を、残された娘さんを見守りながら。
「みなさんの言う希望は、この世の希望ですよね。私の希望は、自分が死んだときに最愛の妻と娘に逢えることなんです。死んだ先でも私を待っていてくれるという妻の言葉こそ、私の本当の希望なんです」
震災そして津波がなければ、家族を喪わなければ、このような思いに至ることは無かったのではないか。生死を分かつ大災害を経ると、死生観も変わってしまう…いや、そもそも生と死とは境界が曖昧で明確に線を引けるものではないのか、と。読者の私は、様々な考えが浮いては消えという感じでした。

震災直後に夢などで家族と「再会」している方も居れば、震災から何年か経ち、生活も心境も落ち着いてきた頃に不思議な体験をしたという方も。
悲しくて何も手につかず死にたい思いだった頃に、亡くした我が子が見えたなら、そちらに逝きたくなってしまう。だから、あの子は私が仕事に集中できるようになり心の整理がついて死にたいと考えなくなって、慰めようと安心して出てくるようになったのではないかと思う。
そう語ったお母さんも居りました。

かかってくるはずのない電話、どうして今になって届いたのか分からないメール。
電話に出るはずのない、亡き家族からの応答の声。
津波に呑まれ、もう動くはずのない遺品の携帯電話が、停電し真っ暗な部屋で光を放つ。
津波に流され、もう戻ることはないだろうと思っていた家族の遺品や思い出の写真が見付かる。
遺族たちは、亡き家族が夢に現れる他にも、数々の「現実には起こり得ない」奇跡に出会っていました。
それを偶然だとか、気のせいとか疲れが原因だとか、幻覚・幻聴と言うのは簡単です。
ただ、彼らは確かにこの目で・耳で見たのだ聞いたのだ、感じたのだと語ります。時に「信じてもらえないだろうけど…」などと前置きしながら。誰にも信じてもらえないなら、真剣に受け取ってもらえないのなら、あまりにも残酷な話です。
これは妖怪やUMAのくだりと或る意味同じです。自分を空っぽにして、とにかく疑念を挟むことなく「そんなことがあったのですね」と真摯に耳を傾ける、まずはそこからじゃないかと。
語られることなく「不思議な体験」が体験者の命が消えると共にこの世界から消えて無くなってしまう――それを回避しようと、有志による聞き取りと傾聴は、きっと今も何処かで続いているのでしょう。
これは震災体験だけではなく、生活が変わり環境が変わり、そこに暮らす人間の思考も変わっていき、それゆえに今にも消えゆきそうな「現代の民話」にも言えることで。私、真剣に『山怪』の第五巻が出るのかどうかが気がかりでなりません。
一方で、ネット界が一つの実話怪談等の伝播の場になって、「ネットロア《net(インターネット)+folklore(民間伝承)からの造語》」という言葉が生まれていたりも。

吉田兼好は、著書『徒然草』の中で「おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば」(思ったことを言わずに我慢したなら、お腹がふくれてしまうので)と書いたそうです(徒然草 第十九段「折節のうつりかはるこそ」)。
誰かに話したら、聞いてもらえたら、きっと少しは楽になる。けれど、誰にでも話せるものでないし、真剣に聞いてもらえるかどうかも分からない――そんな事情で、今なお体験者の胸にしまわれたままの「不思議」が、きっと相当数存在しているのでしょう。
日本は地震国であり、近年は豪雨による水害も重なります。最近では能登地震……それらの被災地でも、もしかしたら今この時にも「不思議」は現れているのかもしれません。
そんな幾多の「不思議」たちも、遠からず、一つでも多く浮かばれることを願いつつ・・・。

附 私の死生観

正直に語りますと、被災地の幽霊話を読んで、生者と死者双方の切なる思いを感じて涙ぐむ自分も居る一方で、「生きとし生けるもの、いつかは死ぬ。それがいつ何処であるかの違いだけで、もしかしたら数秒後のここかもしれない。それなのに、多くの人間は今日と変わらぬ明日が訪れることを当たり前のように思っていて、急にその未来が暗転すると愛する人をどうにか救えなかったものか、どうして自分は生きているのに、と嘆き悲しむのだよな」と冷静に見ている自分も居ます。
それは過去記事でも何度か書いていますが、私がジーニアスタイプ・ランバスを相応に高比率で持ち合わせているからであり、自分自身これまでに何度か「九死に一生」を経験し、それでも何だかんだ今でも生きていて、或る意味ドライな死生観を持ったからでもあります。

もう何年も前ですが、ニュースの中の一コーナーとしてだったと思いますけど、余命宣告をされ死が迫りくる母親が娘に味噌汁の作り方を教える話が流れました(娘は多分まだあまり台所に立ってせっせと料理したことがないくらい、小学生だったのかなと)。「我が家の味噌汁」を、自分が死ぬ前に娘に伝える。それは味噌汁の味そのものを伝えるのみならず、家族の絆を守り繋ぎ、母の生きた証を遺す意味もあったのだろうと。でも、本当に死が迫っているのなら、これくらいのことしか出来ないし、これこそがその時為しうる最大限の最も尊い遺産であったろうと私には思えます。お金や時間をかけなくても残しうるものはある、と。
しかしながら、世の中には死が見えてきて慌てるように「何か自分の生きた証を残したい。けれどもお金も資材も時間もない」と言い出す人も居るようで。
私は言いたい、「生きた証は、死が見えて慌てて作るものではない。今迄生きてきた道のりの間で残してきたはず、いや残してくるべきものじゃないか。そんな急ごしらえの『生きた証』じゃ、受け取った人も困るんじゃないか」と(それなりに辛辣)。
いや、そもそもその「生きた証」自体がエゴなのではないかとも。
『魂でもいいから、そばにいて』夏の旅の末尾で引かれていた、画家・詩人であるマリー・ローランサンの詩『鎮静剤』の最後の一節、
  死んだ女より もつと哀れなのは 忘れられた女です。
ではないけれども、多くの人間は死で自らの存在がこの世から消えることと同様、いえ、それよりも尚一層、自分の行いが自分のよすがが世の中から人々の記憶から綺麗に消えてしまうのが恐いのではないでしょうか。

ところで、私が日本の古典の中で最も共感するのは、何はさておき『徒然草』です。

未だ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生の中に多くの事を成じて後、閑かに道を修せんと思ふ程に、病を受けて死門に臨む時、所願一事も成せず。言ふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、この事、かの事、怠らず成じてんと願ひを起こすらめど、やがて重りぬれば、我にもあらず取り乱して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。

徒然草 第二百四十一段「望月の円かなる事は」 より  

自分に死が迫っているなどと思わない時には、こんな日々はまだ続くんだし、まあ後でいいや、に なってしまい。病気になり重くなって死が見えてきたら、「ああ、あれもこれも何も果たせていない」と、これまで努力してこなかった己の怠惰を悔やみ、「病から回復したら、その時は昼も夜も怠けずに成し遂げよう」、だから神仏よ、どうか私を助けて下さい、、くらいの勢いで祈り願うのだけれども、やがて病はより悪化し、取り乱しながら死んでしまう。世の中には、こういう人ばかりである。
…という、兼好の世人への痛烈な批判とも言える内容です。でも間違っていない。

口を開けば「自分が死んだ後のことが、家族が心配だ」と言う人が居ます。
それもまた、私からすれば「その『心配だ』と言っている時間があるなら、今やれるべきことをする・残していけるものを将来といわず今整えることに遣えばいいんじゃないか。いや、それしか出来ないだろう」となります(爆)。
『魂でもいいから、そばにいて』の中で、夫の夢に現れた亡き妻が言います。
『いまは何もしてあげられないよ』
夢枕に立ったり、家などで物音を立てたり気配を感じさせる、そういう励まし方にならざるをえない霊も多いようです。
どんなに心配しても、誰にも死はいつか平等に訪れる。それは突然の場合もある。
死者には生前のようには生者の手助けは出来ない。
生者は自身が持てるものでこの世を生き抜くのみです。
「心配だ」は愛情表現なのかもしれませんが、言い方を変えれば「自分にまだ余裕があるから他者の心配が出来る」ということでもあります。だから、私は「周囲に心配かけて申し訳ない」とか言ってる人が居れば、「他人を心配する余裕がある人たちなんだから、今は心配させておけばいい。申し訳ないと思うんなら、心配かけないような立場・暮らしに自分を早く持って行けるような努力をしなよ」と言うのです(爆)。
そして本当に「心配」ならば、自分がどんな状況に置かれようとも最期まで見届ける覚悟で言ってほしいものです。

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