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猫を待つ書斎の窓

いつも少しだけその窓はあいている。晴れの日も雨の日も、冷たい風の通り抜ける冬の日も日差しのふり注ぐ夏の日も。

毎日の散歩道にある家の一階窓。ひっそりとあいた窓の向こうには飴色の書棚に几帳面に並べられた本が見える。

どんな方が住んでいるのだろう。網戸ごと開けられた窓を横目に何となく違和感を覚えながら通り過ぎる。数ヶ月後にその住人と本の話をすることになるとは夢にも思わずに.....

少し肌寒くなってきた秋の日、大事な猫が家からいなくなった。その日から『猫を追いかけて』で書いたとおり、私は捜索の日々に明け暮れる。夜中の三時から東の空が朝焼けに染まるまで探し歩き、落胆のうちに帰宅して着替えると仕事に出かける。

1ヶ月もそんな日が続いた頃、いつものように夕方、小さな声で愛猫の名前を呼びながら近所を歩いていると1人のおじさまが近づいてきた。私がよほど絶望的に情けない顔でもしていたのだろうか、たまりかねた様子で話しかけてくる。
「いつまで探す?あんたは内田百閒の『ノラや』を読んだことがあるか?あの人でも見つけられなかったんだ、きっともうどこかで幸せに暮らしてると思えないか?」

その時は「知らない人なのに突然何を言い出すのだろう(しかも絶妙にネタバレだし...)」と戸惑いと反感しか沸かず、曖昧に会釈をして通り過ぎた。

翌日の夕方、いかにも猫が隠れていそうだと度々遠まきに見ていた庭の持ち主さんがその手入れに出てこられたので思いきって声をかけてみる。
「あの...お庭でこの猫を見かけられませんでしたか?」

その男性は写真を覗き込むと「あぁ」と声をあげた。
「チラシがポストに入ってたね。まだ見つからんの?なかなかねぇ、おれも2年くらい前に友人の猫を探してそこの林に何回も入ったんだよ」

なんと!私以外にも猫探しにあの鬱蒼とした林に入った人がいたとは。
「それで見つかったんですか?」
そのかたは残念そうに首を横に振った。
「何回か入って探したんだけどねぇ、見つからなかったよ」

猫探偵の人も「この林には入ってないですよ」とあっさり言っていたがどうやら猫は狸など野生動物が住んでいる危険な所には本能的に近寄らず、餌のある住宅街の方へ向かう傾向があるようだ。

「ああ、あそこに歩いてる〇〇さんとこの猫だったんだけどね」指差した向こうに見えたのは、あのいつも少しだけ書斎の窓が開いた家に入っていく昨日のおじ様の姿だった。

「〇〇さんもずっと探してたんだけどねぇ、今でも毎日庭に餌を置いてるから近所のいろんな猫と顔馴染みになってるみたいだよ。いつ帰ってきてもいいように窓も開けてるんだってさ」
そのかたはちょっと微笑んでおじ様を見送り、
「見つかるといいねぇ」と私に言った。

おじ様から言われた言葉が再びよみがえる。

(いつまで探す?あんたは内田百閒の『ノラや』を読んだことがあるか?あの人でも見つけられなかったんだ、きっともうどこかで幸せに暮らしてると思えないか?)

これは私へだけでなく、自分に対しての言葉でもあったのだろうか。

年明け、私は瀕死で倒れていた愛猫をようやく保護した。治療に専念した4ヶ月が過ぎた今、ケガはすっかり治り体重も増えて、毎日その温かい身体を抱きしめている。よほど鳴いて声帯を痛めたのか声はもう出ないが、かすかに呼びかけてくるニャアという口の形が愛おしく、柔らかな背中に顔をうずめる。また会えて良かったね、大好きだよと伝えられることに感謝しながら....

あとでご近所の方に聞いた話では、おじ様は役所関係を退職された方で、私の猫のことを知り合いを通じて調べてくれていた。私が家のポストに入れていたチラシを持って事故にあった猫はいないかと役所へ足を運んでくださっていたらしい。

家を訪ね、見つかったことを伝えると相変わらず無愛想な表情だったけれど、目に安堵の色が浮かんだように思えた。
「『ノラや』読みました」とそのあとしばらく本の話やおじ様のいなくなった猫の話などをして別れた。

おじ様の書斎の窓は今日も少しだけあいている。いなくなってしまった猫がいつでも帰って来られるように.....

いつの日か暖かな陽だまりに包まれた書斎で、おじ様とその猫が穏やかな優しい時間を共に過ごせますようにとそっと祈っている。


♪さびしくなかった 君に会うまでは
ひとりで食事する時も ひとりで灯り消す時も
いつか失う日が来るのだとしても
優しくなる きらめいて見苦しく
生まれ変わる これほどまで容易く

    スピッツ『さびしくなかった』

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