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「世界の中心は私。私が嫌いなものは認めない。自分の思い通りになって欲しい」

なぜシンプルにそういわないのでしょう。
皆さんこういえばいいのに、婉曲表現が好きなようで、いろいろと表現を変えてネット上で話をしています。

この記事もそうです。

「提言」としていますが、結論としては「私が好きな文学フリマの形ではなくなってしまった」ということでしょう。
それならば自分が好きな形のイベントを自分で作ればいいでしょう。このままでは文化が廃れてしまうといった具合に危惧している人はなおさらです。

「提言」と言い、「こうあるべき」というのは思想の押し付けです。
思想自体は自由であるべきですが、押し付けはよくないでしょう。
そう思うならやはり自分が思うイベントを、自分が思う崇高な理念を持つイベントを作るべきです。

そして、求められてもいないのにこういった「提言」をしている人はそのイベントで売り上げが悪かったり、個人的に嫌な思いをした場合が多いです。

ただの自分の「不満」や「嫉妬」を「提言」などという崇高そうな言葉に置き換えて書いているようにしか思えません。

もし本当にイベントを良くしたいならネット上で「提言」などと書いていないで、イベントの事務局に参加するか、こんなところに書いて「アピール」していないで直接事務局に行くべきでしょう。

(もし既にそうしているのであればすみませんが、いずれにせよこんなnoteに書いている場合ではないと思います)

また、SNSの発展により便利な言葉も増えました。

例えばフェミニズムやフェミニストというものがあります。ルッキズムみたいなものもあります。
元々の起源は異なるでしょうし、理念や文化的の意義もあったかと思います。
これ自体は素晴らしい活動だと思いますが、現代の日本では「自分が気に食わない」という理由でこの言葉を使いたがる人が多いです。

例えば静的搾取という単語が、男性にモテない女性がひがみや嫉妬、自分もかまってほしいという、「世界の中心は私。私が嫌いなものは認めない」という意図で使われている現場をよく見ます。

「○○ハラ」が増えていくのも「世界の中心は私。私が嫌いなものは認めない」の「嫌いなもの」が○○に入っているように思います。

始まりは確かに崇高な理念があります。
本来の意味でのパワハラはよくありません。ただ、私個人の価値観としては、何も仕事ができない新人に対して指導するのは「ハラスメント」ではないと思います。

これだけ世の中の情報が行き来する世界になったのだから、他人を変えようとするのではなく、自分が生きやすい世界を探してその場所に行けばいいのにと思います。

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