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外山雄三の思い出

先ごろ亡くなった日本の偉大なマエストロ、外山雄三の思い出を書きたい。

外山雄三を生で聴いたというクラオタは案外少ないのではないか。

N響の正指揮者ながら同じポストの尾高忠明と違って定期演奏会を振らせてもらえていなかったし、クラオタの評価は必ずしも高くなかったはずだ。

指揮者より作曲家としての評価が高い。「管弦楽のためのラプソディ」はいまも頻繁に演奏される名作だ。

日本のオーケストラが海外公演するとよくプログラムに上がるので昔はネタにして笑っていたのだが、日本の伝統的な祭りの音楽をふんだんに盛り込んだこの作品はエンターテイメント性もありながら聴く者の心を深く揺さぶる力も持ち備えている。

いまや武満徹の作品以上に取り上げられる機会が多いのではないか。

その外山雄三を生で聴きたいという思いがあった。

音楽家を語るにあたって「生で聴いたかどうか」は非常に大切だと思っている。
「チェリビダッケを生で聴いたが寝てしまった」でもよい。会場の空気を体感しただけでも意義がある。
地方在住など生演奏を聴く機会が限られる人は気の毒だと思うが、首都圏のクラオタならコンサートに行くべきだ。

CDばかり聴いていると、音楽がパッケージ化されたものだと勘違いしてしまう。
NHKの「のど自慢」が生バンドからカラオケ音声になって味気なくなったが、音楽とは本来生ものである。その原点を忘れないでいたい。

外山雄三はクラオタからスルーされがちだから一層生で聴いておきたかった。
生で聴かないままだと「気難しそうなおじさん。生真面目な音楽だが二流」といったイメージで終わっていただろう。

今年唯一の東京公演がパシフィック・フィルとのシューベルトの5番8番だというので、当日券で行った。
無論、高齢ゆえのキャンセルに備えてである。

感想をこちらに書いたと思ったが、あまりに腹立たしくて書かなかったのだった。

というのも、開演前に「ゲネプロで急に体調を崩されたので、前半の5番は指揮者なしで演奏します」とアナウンスがあったからである。

はああああ????としか言いようがない。

開演5分前に決めたのか? そうでないなら当日券売り場でなぜ告知しない。詐欺だろと思った。

アナウンスがあったら聴衆(半分も入っていなかった。大赤字だろう)は拍手していた。よく拍手できるなと思って私はしなかった。

前半の交響曲第5番の第1楽章は爽やかな楷書体で、この楽章だけがこのコンサートでよかった。

コンマスのリードもやがては方向性を失い、どんな曲を描きたいのかがわからない、アンサンブルを合わせるだけの演奏になった。指揮者なしでありがちな音楽だ。

後半の「グレート」で外山は車椅子で現れ、付き添いの女性が身体を支えながら指揮台の椅子に座らせた。
女性が指揮棒を預かったので「取られちゃった」と外山が言うとドッと笑いが起きた。

広上淳一が言うには「ジョーク好きな人」であったらしい。
気難しい印象だが、たまに見せるそうした茶目っ気が魅力だったのだろう。

肝心の“指揮”はひどいものだった。第一楽章からまったく振れていない。
いや、ゆらゆら揺れる右手でテンポを、たまに動かす左手で表情を表していたではないかと言う人がいたら、あれが外山雄三の芸術ですか?と私は問いたい。
少なくとも本人は不甲斐ない、やるせない気持ちで指揮台に座っていたのではないか。

ほとんど振れていない状態はどんどん悪化し、第4楽章の途中で外山はタオルで口を押さえた。嘔吐があったのかもしれない。
舞台前列にいた関係者と思しき男性3人が慌てて舞台袖に消え、車椅子を押してきた女性とともに外山は退場した。

私はこのシーンを見て、ノット/東響がショスタコーヴィチの交響曲第4番を演奏中に失神した2ndヴァイオリン奏者のことを思い出したが、あれは不測の事態で、外山の場合は考えうる事態だった。だからおそらく「私が倒れても音楽は止めるな」という指示があったのだろう。とはいえ指揮者が運ばれる中、演奏を止めないオーケストラは異様な光景だった。

結局、リーダーを失ったオーケストラはまたもやアンサンブルを整えるだけの集団と化し、外山の指揮が見たいがためにわざわざステージサイドの席を買った私からすれば何を見せられたのか?という思いだった。指揮者なしのパシフィック・フィルのシューベルトに対してはあまりにも高い出費だった。

生前の外山雄三の指揮に少しでも接することができたという意味では行けてよかったのかもしれないが、私は「外山雄三を聴いた」とはとても言えない。

晩年は大阪交響楽団のポストを得て、関西圏での活動が主だった。
もっと早く聴いておくべきだった。

役者はよく「舞台の上で死にたい」と口にするが、本人は本望でもそれを見せられる観客はたまらない。やはり作品として成立しているものを鑑賞したいというのがお客の心理ではないだろうか。

終演後に車椅子で現れた外山雄三に聴衆は大きな拍手を贈っていた。
私の心中は穏やかではなかった。こんな体調ならなぜ中止にしなかったのだ? 指揮者がやりたがったのかもしれないが(それに公演中止なら大変な赤字だろう。パシフィック・フィルはただでさえ予算の少ないオケだろうに)、このような不完全なものを見せられて困惑した。

いったい何に対する拍手だったのか。こんな体調なのに振ってくれてありがとう、という気持ちか。私はそんな体調なら振らないで療養に専念してほしかった。

ただ指揮台に立ってればいい。指揮ができてなくても見れたら満足。
それでは指揮者ではなく、まるでパンダではないか。
みんな外山雄三の芸を楽しみにお金を払って来たのではないのか。

私は「見れればいい」という心境ではなかったので、終演後の拍手の輪から抜け出して早々とホールを後をした。

外山雄三の芸を楽しみに来た自分としては、前半降板を告げなかった受付にも腹が立ったし、後味の悪いコンサートだった。

しかし、繰り返しになるが、熱烈な拍手を贈っていた人たちはいったい何に対して拍手していたのか。

私は困惑していた。外山雄三の芸とはとても呼べないものを見せられて。

本人が満足いくはずのない出来栄えの音楽に拍手することはかえって外山を軽んじる気がした。

だから、今でも私は「外山雄三を聴いた」と言うのは躊躇する。
「外山雄三を見た」とは言えるけれども。

私が聴いたのは「外山雄三の音楽」ではなかったはずだ。
それはおそらく外山の全盛期を知る音楽ファンであれば首肯してくれるのではないだろうか。

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