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N響のフェドセーエフ代役を問題視しないクラオタのヤバさ

また過激なタイトルつけちゃった……😂

わざわざ炎上したいわけではありませんが、この問題を“寛容に”受け入れようとするクラオタがクラシック文化を滅ぼしかねないという持論を以下で述べたいと思います。

まず、フェドセーエフ降板に関してはこちらをご参照ください。

この代役に賛成の意見を表明するばかりか、憤ってるオタに「心が狭い」とか言ってるやつに対して疑問に思うのは2つ。

まず、1つ目は……

チケット買ってるよな??😅

まさかチケット買いもしないで、お金払った人たちを批判してるんじゃないよね?😂

実害被ってないから鷹揚なことが言えるんだよ。

もともと行く予定はなかったが、応援したい気持ちはある?

それなら今からでもチケット買ってあげてほしいですね。

お金は出さないのに口だけ出すやつが一番タチが悪い😓

そして、2つ目。

ふだんコンサートに行かないでCDばかり買ってる人なのかもしれないが、チェリビダッケのブルックナー8番の未発表音源がリリースされたので慌てて予約したとして、いざ荷物が届いて開けてみたらカラヤンのブルックナーの8番だったとしても文句言わないんだよね?

同じことでは?

以下で詳しく書きます。

私は今回のN響の対応は購入者やクラオタを軽んじてるのみではないと考えています。
クラオタが看過すれば、クラシック文化の衰退を招くとすら思っています。

N響の対応を擁護してる人って「安倍さんも菅さんも寝ないで頑張ってる」とか言ってた人と同じ層では?😂

そうした“安易な擁護”がどれだけ国の衰退を招いてきたか。

怒るべきときには怒らないといけない😡

ウェルザー=メスト/ウィーン・フィルの代役がソヒエフになりましたね。

私は小林研一郎、小泉和裕、秋山和慶、井上道義が振り分けても面白いと真剣に思いましたが、もちろんそんなことになるはずもなく、ソヒエフになりました。

代役は、本来「格」が見合ってないと代役とは言えません。

新人が急遽大抜擢されるケースだってあるとは思いますよ。

しかし、それなら「払い戻しも受け付ける」という選択肢を設けるのが誠意ある対応だと思いますね。

ラザレフの代役のカーチュン・ウォン/日本フィル、藤岡幸夫の代役の高関健・山上紘生/シティフィルのときのような誠意がN響には感じられません。

ラザレフの代役のカーチュン・ウォンは元々メインだったロシア音楽というジャンルは変えずに自分のレパートリーに変更しました。

そして、桂冠指揮者の代役を首席指揮者が果たすのは極めて誠実。

シティフィルはメインが吉松隆の交響曲第3番でした。

これは曲目当ての人も多かったでしょうから(もちろん藤岡さんの指揮する吉松だから聴きたい人が大半だったでしょうが)、曲は変えずに、リハーサルで指揮していた山下さんが吉松を指揮、前半のグリーグのピアノ協奏曲の伴奏は常任指揮者の高関さんが務めるという、これも誠意を感じる対応でした。

今回のN響はどうでしょう。

まず、フェドセーエフだから買った人が大半だと思います(NHK音楽祭の「くるみ割り人形」は曲で選んだ人も多そうですが。私はそちらを買っていました)。

A定期なんて「巨匠のお気に入りコレクション」的なプログラムなのに、それを代わりの指揮者が振ってどーすんの?

これは新人でなくても、井上道義や下野竜也といったベテランだとしてもそう思います。

振り慣れない珍曲で定期デビューするはめになった指揮研究員のお二人はお気の毒な気がします。

私の想像ですが、フェドセーエフ来日中止が決まったとき、事務局ではこんなやりとりがあったのではないでしょうか。

A「この曲では引き受けてくれる指揮者が見つからない! ロシア音楽というジャンルはそのままでプログラムは変えたらどうか?」

B「いや、指揮者も曲も変えたら別公演になってしまう。それでは余計クレームが来るだろう」

私はAの意見に賛同です。ロシア音楽の名曲に変えていれば(トリの「眠れる森の美女」くらいは残しましょう)、振れるベテランが見つかったのではないでしょうか。

曲をそのままにすることにこだわった結果、名乗りを上げる指揮者が見つからず、指揮研究員の二人になった。

91歳のロシアの巨匠の芸を期待していた客に対する代役としてふさわしいと思いますか?

格とかキャリアの問題もありますが、演奏会に期待するものが違いすぎます。

熊倉優や沖澤のどかの代役ならまだ話はわかります。
新鋭を聴きたくて来てるわけですから。

それで言えば、東響定期で奥井紫麻がモーツァルトの協奏曲を弾くときの指揮者がアンガス・ウェブスターから下野竜也に変わったときもがっかりしました。

新鋭同士の共演が楽しみで買ったのです。

こういう場合はベテランより若手、川瀬賢太郎や太田弦の方が代役に合ってる気がします。

もちろん急遽引き受けてくれる音楽家には感謝しますが、代役とは本来そういうものだと思うのです。

バーンスタインのマーラーの代役がテンシュテットやバルビローリならまだ許せるけど、ブーレーズだと許せない。そういうのがクラオタではなかったのでしょうか?

今回のN響の対応を受け入れるなら、悪しき前例ができてしまいます。
今後ヤノフスキやエッシェンバッハが来日中止になって指揮研究員なり誰かに代わっても文句言わないんですかね。

クラシックの鑑賞とは「個性の鑑賞」ではなかったのですか?

曲が聴ければ誰でもいいんですか?

N響事務局の対応は最近増えた無個性な演奏を象徴してるようにも思います。

誰の指揮でも同じでしょ?

と。

私はフェドセーエフの代役なら、やはり「ベテランが振るロシア音楽」という軸で探すべきではなかったかと思います。

「珍曲が聴きたくて買った」と事務局は考えたのでしょうか?

あくまで皆さん「フェドセーエフが指揮する愛聴曲だから買った」のではないんですか?

今回のことで憤ってるクラオタに「心が狭い」とか苦言を呈してる輩はまずA定期のチケットを買いましょう。

そして、ふだんCD鑑賞がメインなのか知らないが、チェリビダッケの代わりにカラヤンが届いても返金を求めないというなら納得しますよ。

だって、あなたに個性は価値がないんでしょうから。

聴ければいいんでしょ?

続編です。↓

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