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音楽の政治利用? プレトニョフ/東京フィルの「わが祖国」における違和感

今夜のサントリーホールにおける東京フィルの定期演奏会は後味の悪いものだった。

プレトニョフは大昔にロシア・ナショナル管弦楽団でベートーヴェンを聴いたような気がするが、曲も覚えていないくらいなので今回が初めてのようなもの。
彼が特別客演指揮者を務める東京フィルとのスメタナ「わが祖国」は2年前に演奏される予定だった。
コロナ禍などの理由で2回延期されたが、それも中止。今回3度目の正直で来日の運びとなった。

もともと行く予定はなかったが、ウクライナ情勢でプーチンと親しいヴァレリー・ゲルギエフがミュンヘン・フィルの首席指揮者を解任されるなど、ロシアの音楽家への風当たりが強い現状において、プレトニョフがどんな音楽を形作るのか興味がわいた。

とはいえ、私は音楽会に政治的なメッセージは特別求めていない。ただ、特殊な状況ゆえに生まれる音楽の緊張感というものはある。
例えば、バーンスタインが生涯でただ一回ベルリン・フィルの指揮台に立ったマーラーの交響曲第9番。あるいは、ギュンター・ヴァントが2000年に手兵の北ドイツ放送交響楽団と来日したときは、おそらくすべての聴衆が「最後の来日」と覚悟して聴いただろう(私もその一人)。
そうした特殊な状況は音楽の質を変容する力がある(必ずよくなるとは限らないが)。
その意味において、今夜の「わが祖国」は期待外れに終わるばかりか、憤りを感じずにはいられないものだった。

まず、プレトニョフがステージに現れて指揮台に乗ると、ほぼ間を開けずに右手を大きく振り始めた。
冒頭はハープ2台のソロ。途中からは指揮をやめ、奏者に任せていた。
オーケストラ全体を指揮するプレトニョフをしばらく見ていて「なんか元気ないな」と思った。
寝不足なのか?と思ってしまうくらい覇気のない指揮だった。
会場にも聴衆が固唾を呑んでいるような張り詰めた緊迫の空気は感じられなかった。

音楽を途切れさせたくないようで、楽章間でも指揮棒は下ろさずにアタッカに近い形で次の楽章に突入する。
全体的に弦の響きが薄く、オケが8割程度の力で弾いてる感じがした(弦は14型、ホルンは8人もいたのに)。私はもっと奏者が必死になって汗水流してる音楽のほうが好きだ。
スメタナの一番の傑作ともいえる「わが祖国」はマーラーなら9番、ブルックナーなら8番に相当する内容を伴った大曲だと私は思っている。軽く流されては困る。

特にひどかったのがシンバル。終始覇気のない音で、おもちゃのシンバルかと思うような響き。ただでさえ薄い音楽をさらに安っぽくしていた。
プレトニョフの指示で抑えた演奏にしてるのか?と最初は思っていたが、奏者の問題だろう。音が小さくても、緊張を伴っていないといけない(どんな楽器でも)。
鳴らし方が雑に感じて、音楽に聴こえなかった。「わが祖国」ってかなりシンバルを使う曲なので、シンバルの音に緊張感がないと音楽の芯が定まらない。

薄い演奏でサクサク進むので、これなら前半後半分けなくてもよかった。マーラーの3番だって通してやるんだから、「わが祖国」だって通しでやってもいいと思うけど(プログラムの時間表示は約80分)。
後半になったらハープ2台が消えていたのもびっくり。食べ終わったお皿片付ける料理店みたい。
前半後半で分けるからこんな興醒めが生じる。

あえて点数をつけるなら60点。シンバルで-30点の合計30点、って感じのコンサートだった。
と思いきや、最後に驚愕の「デザート」が待っていた。
カーテンコール2回くらいでプレトニョフがさっと指揮台に立った。
「えっ? 定期演奏会なのにアンコールやるの?」と嫌な予感がした。
通常、「定期演奏会」と銘打ったコンサートではアンコールはしない。演奏会の曲だけで完結するようにプログラミングされているので、アンコール好きの日本人がいくら拍手し続けてもアンコールはない。

音楽が始まって腰が抜けそうになった。バッハの「G線上のアリア」だったのである。
言うまでもなく、平時だったらこんな選曲はしないだろうから、「ボクも世界平和を願ってるよ」というメッセージなのだろう。
実際帰りがけに「プレトニョフも表立って言えないけど、いろいろ思ってるんだろう」と感想を口にしている聴衆もいた。

バッハが始まって、私は思った。

「とんだ茶番!  日本人がいくら何でも拍手する国民だからといって舐められたもんだ」
「マーラーの9番やブルックナーの8番のアンコールで『フィガロの結婚』序曲やっても日本人は拍手するのだろうか?」

スメタナ一世一代の大作「わが祖国」のあとに「わかりやすいメッセージ的な小品」を置いたことに失望させられた。
愛国心や平和への願いは「わが祖国」で本来なら十分表現できると思うが、プレトニョフとしてはたぶんそれでは日本の聴衆に伝わらないと思ったのだろう。それって馬鹿にされてるのでは?
ニュースで喧伝されるのかなぁ。「ロシア人指揮者、バッハで世界平和を祈念」とか。

ズービン・メータが東日本大震災の直後に来日してN響でベートーヴェンの第九を振ったとき、冒頭に「G線上のアリア」を置くプログラムを組んだ。
あるいは著名な音楽家の追悼として、指揮者が突如アナウンスして、予定していたプログラムの最初に「G線上」を演奏することはあるが、まさか「わが祖国」のような一曲だけで完結する大曲の後に演奏されるとは。

スメタナに失礼ではないだろうか?
「わが祖国」では表現しきれないって指揮者に見なされたわけだし、聴衆が大きな拍手でそれを受け入れていたのにも大きな違和感があった。

指揮者の井上道義が先日引退宣言をして世間を驚かせたが、「ブーイングをせずどんな演奏にも拍手を惜しまない日本の聴衆がコロナ禍においてエスカレートし、いまや『演奏してくれるだけでありがたい』という拍手に変わってきた状況に耐えられなくなった」(私の解釈)という理由もあるらしい。

「日本の聴衆は礼儀正しい」とはよく海外のアーティストから言われることだが、これを素直に受け取ってはいけない。
「いいものはいい、悪いものは悪い」と態度に出せない日本の聴衆は、骨董屋で安物の壺を高い値で買わされてニコニコしてるお人好しに近い。
バラエティ番組でも大して面白くないのに「空気を読んで笑う」ということがよくある。それが「大人のふるまい」とされている。
つまらないと思って笑わないでいると「放送事故」扱いになってしまうのだ。

日本の聴衆はもっと素直に感想を表現していいのではないか。
拍手の熱量の差は感じるが、凡演時でさえ一定の拍手量は保障されている。
その「大人のふるまい」は芸術家にとって必ずしも益ではないと思う。

無論、プレトニョフの「わが祖国」がぬるくてつまらないと感じた私と違って、素晴らしい!と本心で感じたのであれば拍手すればいい。
ただ私は、数ヶ月前にマタチッチ/ウィーン放送交響楽団の「わが祖国」(1982年ライブ)のCDを聴いて、その濃密な感情表現にびっくり仰天・大感動したので、今夜の薄味な「わが祖国」にはとても酔えなかった。
ただでさえ日本人には理解しづらいチェコの郷土愛がテーマなのに、それをオーケストラに理解させようとする指揮者のアプローチが感じられなかった。

演奏がいまいちなだけだったら「まあ、そういうときもあるよね」で流せるが、「わが祖国」のあとに「G線上のアリア」を演奏するような行為はやめてほしい。
聴いた人のほとんどがそこに政治的意図を感じただろうし、それならいっそウクライナ国歌を演奏すればよかった。

「平和を願っている」というアピールだけはしたかったのか。
エリツィンとプーチンから勲章もらってるようだからあからさまな言動はできないにしても、音楽家(プレトニョフ)が政治的なメッセージのために音楽家(スメタナ)を軽んじるようなことがあってはならない。
今夜の演奏会でいつもと同じように大きな拍手をしていた聴衆に腹が立ったのもその点である。

今夜ほど「わが祖国」が虚ろに響いた夜はあっただろうか?

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