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薔薇に救われた話(エッセイ・ペットロスガーデン⑧)

玄関の横に、「アンジェラ」というバラがある。
淡い色の花が多い我が家の庭には珍しく、蛍光をほんの少し含んだような、鮮やかなピンク色の、お姫様みたいなバラだ。
アンジェラはどんなに強く剪定をしても、どんどん新しい枝を伸ばす。
虫が付いて葉が落ちても、また必ず返り咲く、頼りになる存在だった。

しかし、花付きがよく、あまりに鮮やかに咲くので、その蛍光ピンクは私には眩しくて、玄関横には派手すぎるからと、以前、思い切って庭の後方に植え替えようとしたことがあった。
大方の位置を決め、作業をする為に着替えて、玄関を開ける。
すると、そこで突如、アンジェラの香りが、玄関いっぱいにふわぁ~っと広がったのだった。世界がピンク色の天国になったみたいだった。
私は、花の香りでこんなにも心が動いたことは、他にない。
不思議なことに、アンジェラは元々、香りが強くない。というよりも、無香に近いバラだ。
後にも先にも、あんなにアンジェラが香ったのは、その時だけだった。
アンジェラはあの時、植え替えてくれるな、ここにいたい、と、はっきり主張したのだった。
植え替えは取りやめた。

それから数年間、黒パグのなこと一緒にアンジェラの世話をした。
なこの丁寧な見守りのおかげで、毎年5月には、沢山の花が玄関横を華やかに飾った。
アンジェラは、一枝切ると、咲いた花がブーケのようにまとまるので、犬仲間を呼んで「バラ見会」を開き、みんなでお茶を飲んだり、ブーケを持って写真を撮るというパーティーをしたこともある。ほとんど人に会わない今では信じられないが、私はかつて、犬同伴専門のパリピだった。



しかし、なこが死んだ後、仕事に没頭し、部署異動で夜勤も始まった私は、生きてるだけで精一杯みたいな状態になり、そんな生活の私に、庭の花々は、徐々に目に入らなくなっていった。

深夜まで働き、疲れ切った身体で寝不足のまま、数時間後には家を出る。
玄関を開けると、必ず引っかかる伸びた枝があり、ドアが開けにくい。
その度にイラっとして、それでも枝を切る心の余裕すらなく、ドアを出る度に苛立つということを繰り返していた。
そしてある日、いつものように玄関を出た時に、邪魔だなあ!と枝を睨みつけた私は、枝の先にバラが一輪、咲いていることに気が付いた。
アンジェラだった。


一瞬にして、過去の懐かしい映像が蘇る。
まだなこが生きている春。
玄関を華やかに飾るアンジェラ。
咲くのを待つ間、蕾を観察するように見ていたなこ。
このバラはなこが咲かせたんだ!と言って、何枚も何枚も写真を撮った。
黒いなこの身体が、ピンク色の花に映えて素敵だった。



疲れ切っていたその時の私は、アンジェラのことなどすっかり忘れていた。
かつてあんなにも仲良しだったアンジェラが咲いていることにさえ、気づかなかったのだ。
放置されて虫喰いだらけ、小さくなった枝の先に、一輪だけが、咲いていた。
花というのは、そんなに手をかけなくてもよく見ていれば、元気に育ってくれる。
でも、目が離れてはだめなのだ。忘れられると、ひっそりと消えてゆく。


私は、涙が止まらなくなった。
もう、仕事は辞めよう。
心が壊れてきている。
アンジェラは、玄関の前に枝を伸ばして、私に優しく語りかけ、心を呼び覚ましてくれたのだった。
 
忙しく働いたら、寂しさは紛れるのかと思っていたけれど、忙しすぎたら、もっと寂しくなるだけだ。
仕事を辞めた私は、好きなだけゆっくりすることを自分に許した。
そして、日焼けしながら荒れた庭の再生を始めた。
もう一度、なこの庭を。

鮮やかなピンク色は、庭ではちょっと浮いている気もするけれど、アンジェラは親愛なる友人として、今も玄関のそばに植えられている。

私がまた弱った時は、そっと話しかけてくれるだろうか。

(9/15少し内容を書き換えました。)

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