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ペットロス歴10年目(エッセイ・ペットロスガーデン②

最後に暮らした犬、なこが死んで、ペットを飼えなくなってから、10年が経つ。
あれから、楽しいことも沢山あったし、43歳の時、結婚もした。
今だって、幸せだと思う。

でも、なこがいた時と、いなくなってからでは、世の中の見え方が違う。色が違う。時間の粒の、輝きが違う。
一瞬をとらえて逃さない、そんな鋭敏な感性のレンズを、落っことしてしまったような感じだ。
あの世界にあった、眩しいほど鮮やかに見えた景色は、今はもうない。
人間と動物の、生きるスピードの違いが、そうさせるのだろうか。
 
失うことが怖くなり、犬を飼えなくなった。
小鳥だったらどうか、ハムスターなら。いやそれでもきっと泣く。

メダカだったら、生活に支障が出るほどには落ち込まないかな、と思い、外の鉢で飼うことにした。
それでも準備は入念にして、メダカが生きるのに、できるだけ心地いい環境を整える。
餌をやると寄ってきて楽しいけれど、失っても落ち込まない程度の関係の中では、そこまでの親愛は生まれない。

それでも、命を飼っているという重みは、常に心の中にあるようで、大雨の夜は、鉢から水が溢れたら、メダカが外に出て死んでしまう!と(雨の時メダカは底に待機しているから大丈夫、とネットで読んだのだが、それでも不安になった)、びしょ濡れになりながら、鉢の水を、何度も捨てに外に出た。

夏は毎日、冬は2~3日に一度、餌をやる。
忘れたことなんて1回もないのに、夜中に、エサをやり忘れたままかなりの月日が経った、という夢のようなものを見て、エサやってない!!と飛び起きることもしばしばで、その都度、メダカの餌を持って玄関の前に立ち、そうだ、エサはやったんだ、と思いながら、心臓をバクバク言わせていた。
そこにあるのは、愛情というよりも、それを上回る、生き物を死なせる怖さだった。

メダカの命さえ、自分で思っている以上に重くのしかかり、私はもう生き物を、ただ楽しく飼うことはできないような気がした。そのくらい、なこを失った痛手は尾を引いていたのだ。
 
これは、生き物と向き合えなくなった私が、なんとか飼っているメダカと、自立している野鳥や花を、距離を縮めることなくそっと見つめている、そんな日々のお話だ。


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