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謎の安閑石・・・神秘の古代文様    

   

               巨石・磐座を訪ねる一人旅・・・滋賀 
           所在地; 滋賀県高島市安曇川町三尾里362-2             


巨石に刻まれた謎の文様

安閑石は高さ約1メートル、幅約1.4メートルの巨石で、その表面に奇妙な文様が刻まれている。四角い渦巻状のものや直線の一部が三角形を形成しそれと繋がった曲線が小さな円を描く。じっと見つめていると、多くの小さな円がまるで目のように見えてきて、人を惑わせる。この巨石が放つメッセージは不可解だ。

安閑石

謎の巨石は琵琶湖の西方にあり

日本最大の湖である琵琶湖の西側に位置する滋賀県高島市安曇川町三尾里という地域の一画に安閑石はある。安閑神社と安閑石そして数軒の民家が肩を寄せ合うように隣り合って存在する。

安閑神社


左前方に安閑石、右奥に安閑神社、他の建物は民家


安閑神社は古代の安閑天皇(六世紀)を祀る小さな神社である。
安閑石は安閑神社の前の狭い広場に、簡単な雨よけの屋根に覆われて大切に保存されている。
安閑天皇の在位は6世紀の古墳時代、継体天皇の長子で第27代日本の天皇である。継体天皇は近江の国と関りがあるようで、安曇川町商工会が「継体伝説の遺跡めぐり」というパンフレットを発行していて、そのコース途上に「神代文字碑」として安閑石が紹介されている。

左が安閑石、右は伝説の力石

安閑石は果たして何か?

安閑石が鎮座する場所は神社の敷地の外にあるが、もともと境内であったと思われる。すぐ近くには民家があり、概観上はとても神社の境内には見えない。
 安閑石の表面に描かれた文様は、古代の象形文字あるいは神代文字とも云われるが定説はない。だが、昔から「神代文字の石」として伝承されてきた。
 この岩に関する資料や伝承はほとんど残されていないのだが、その乏しい資料を基にその出自をたどってみることにしよう。
先述のパンフレットをはじめ、「安曇川町昔ばなし」(発行・安曇川町)、「あど川の文化と先人たち」(発行・安曇川町)などには安閑石が簡単に紹介されているが、中でも「安曇川町史」(発行・安曇川町役場)にはやや詳しく解説されていて、謎の文様との関連を指摘されるホツマ文字にも言及している。

 この岩はその昔、河原で発見され、その後近くの小川の架け橋として使われていたという伝承がある。二十世紀初頭、当時の滋賀県庁職員が調査に訪れ、彼らの指示により、安閑神社の境内へ運び込まれ、そこに安置された。
 伝承以前のさらに古代へと遡行してみようとするとき、この岩は数奇な運命を辿ったのではないかという感慨を覚えるのだ。 近くの河原に埋もれるようになる前は一体どこにあったのか?何に使われたのか?いつどこでこの文様が刻まれたのだろうか?
 ある研究者はその大きさと岩刻文様の体様から古墳との類似点を見出し、装飾古墳の一部であったのではないかと推論する。 
 安閑神社に祭祀されている安閑天皇は、前方後円墳が盛んに造られた古墳時代(三~七世紀)の天皇である。もとは古墳の一部であったかも知れないこの安閑石が、当時の政争の結果その古墳が敵によって破壊されて放置され、時が流れていつの間にか河原に埋もれてしまったと想像することが出来なくはない。だが、その真相を知る手立ては何もない。
 安閑石の出自に関する検討は、ここに来て暗礁に乗り上げる。これ以上の資料が出てこない限り、進展することが出来ないからだ。この安閑石はその背後に果たしてどういった数奇な歴史を背負っているのだろうか?    

謎の文様の正体は?

さて、この石に彫られた文様が何であるか、何を意味するのか、いつ加工されたのか、という点が最大の謎である。現代の日本で使われている漢字やカナでないことは明白である。
漢字が中国から伝来する以前の日本には文字は存在しなかったというのが一般通念であるが、この「常識のようなもの」を取り払ってみる必要が、我々にはあるのではないかと思う。
それは物事に謙虚に向き合うという姿勢でもある。

文字か模様か?

ホツマ文字・ヲシテ

実は、古代の日本には独特の文字体系が何種類も存在していたという見方があることが、限られた歴史研究の分野では知られている。その一つにホツマ文字あるいはヲシテ文字という文字体系があり、安閑石に彫られた文様の一部がそのホツマ文字に類似しているという指摘がある。
その文字で記述された古史古伝としてのホツマ伝えとは、遥かな古代からの神話伝説を織り成す膨大な量の叙事詩とされる。ホツマ伝えは他の竹内文献などの古史古伝と同様に、後世の偽書ではないかという見方もあって、古事記、日本書紀ほどには現代社会に認知されてはいない。
 それはさておき、ホツマ伝えは奇しくもこの地の古い神社に伝えられた秘伝だという。とすれば、ここに現存する安閑石と、古墳時代の安閑天皇が祭祀されるこの小さな神社と、この地に伝承されたというホツマ文字とが見事に繋がってくるようではないか。


ホツマ文字・ヲシテ(出典;佐治芳彦・著「謎の神代文字」)

ホツマ伝え(秀真伝)

 さてそれでは、ホツマ伝えという古代文献について少し掘下げて調べてみよう。

 宮地正典・著「新説・ホツマツタエ」の序文によると、人間が本来進むべき普遍の理念が示された文書が、紀元二世紀に作成された「ほつまつたゑ(秀真伝)」なのだという。これは漢字伝来以前に存在した「おしで」という日本独自の文字で記されており、しかも日本語が最も美しく響く五七調の文体で書かれている一万行にも及ぶ大叙事詩で、現代の西欧的常識とは異なる、人間の生きる道に沿った太古の人々の理念と史実が語られているという。そしてこの古文献が古事記や日本書紀の原典となった。つまり古事記や日本書紀は 「ほつまつたゑ(秀真伝)」を漢字に翻訳して生み出されたものだという。 その翻訳について、その当時の日本の文化と漢字の国の文化との相違のため、どうしても翻訳しきれない部分を積み残さざるを得なかったために、原典とは大いに異なるものになったのだと解いている。
 さらに、当時の支配者たちは武力を背景にして、上下関係や支配者と被支配者とで成り立つ社会を運営するために中国の制度や法律を日本に適用し、それには漢字というものが非常に都合よかった。つまり被支配者を意のままに動かすのに便利であったのだ。その背景として、「おしで」という文字が支配者には馴染まなかったため、結果として歴史から消え去ることになる。そして古事記や日本書紀はホツマツタエを原典にしたというものの、原典から大きくかけ離れたものになってしまったと述べている。
古事記と日本書記つまり記紀は日本最初の歴史書とされるが、その編纂にあたってその時代以前の口伝や文献を参照したことは容易に想像できる。日本書紀には頻繁に、「一書に曰く・・・」という表現が出てくる。

 他の文献によると、「ほつまつたゑ(秀真伝)」の成立は、古事記の年代を基準にすると、紀元一世紀頃で、古代天皇家支配以前の日本列島の支配者であった大物主家の史書であるという。大物主家は出雲系の日本列島支配者であり、大物主の命は奈良県の大神(おおみわ)神社の祭神である。大物主の命とは集団的名称で、大国主命はその一族の一人であると述べている。(佐治芳彦・著「日本超古代史の謎」)
 
さて、このほぼ千九百年も前に書かれた古文書はいかにして後代に伝えられたのだろうか?

ホツマ研究の先駆者

佐治氏の別の著書「謎の神代文字」によれば、江戸時代の国学者平田篤胤がその著書でホツマ文字の存在を示唆してから、古史古伝研究家たちがその古代文字で書かれた書物を懸命に探し回ったが発見されず、永らく幻の書とされてきた。だが、昭和の時代に入ってから、松本善之助という、後にホツマ研究の先駆者となる研究家が、東京は神田の古書市で「ほつまつたゑ(秀真伝)」の写本を発見した。そのときに入手したのは完全本の約一割程度であった。

 その後松本善之助氏はその書物の完全な姿の探索を開始したもののなかなか見つからず、大変な努力の後、ついに四国の宇和島の小笠原家で保存されていることを突き止めた。そしてこの古文書は小笠原家が代々伝えてきたもので、そもそもは近江の三尾神社の神宝だったものを小笠原通当という先人が十九世紀半ばに、近代では始めて書物に著したものの、世間に対しては埋もれてしまった。
 それが松本善之助氏によって再発見されたわけである。
 松本善之助・著「秘められた日本古代史ホツマツタヘ」にはそのいきさつが興味深く記述されている。
 昭和四十一年、彼は神田の古書店にて「秀真伝」という写本を入手した。それには奇妙な形の文字が美濃半紙に毛筆でびっしり書いてあり、何かは理解できなかったが、直感的に魅了されて購入したという。その後はその解読に没頭していったがそのためには同時に古代文字など周辺の分野をも研究する必要があった。かくして松本善之助氏はその人生を大きく転向させ、ホツマ研究の先駆者になっていくことになる。
 神田の古書店にて入手した写本には、開巻第一ページに「近江国高島郡産所村三尾神社神宝」とあり、愛媛県士族小笠原長弘と他一名が宮中に収めるために編纂したことが書かれていた。この書は後代の写本であるため、編纂部分は漢字などで書かれてあったものらしい。また、ホツマ文字の解説の章もあったので、徐々にこの古代文字の解読作業が進んでいった。そして、ホツマ伝えの原文の部分は全体の一割にも満たないことも判明した。小笠原家がその後原文を三尾神社へ返還したことを知った松本氏は全文を入手すべく近江国高島郡産所村三尾神社を訪ねた。だが三尾神社は産所村と共に既になくなっていたが、安曇川町の田中神社の摂社として祀られていることが判明した。しかしながら、目指すものを見つけることは出来なかった。その代わり、この地で沢山の古文書を借用することができた。
 東京へ帰った松本氏はその後も諸文献を渉猟し、小笠原家の子孫の存在を見出し、様ざまな調査の結果、先祖伝来のホツマ伝えを秘蔵していることが判明した。松本善之助氏は小笠原家の子孫の人たちに面会すべく四国へ跳んだ。そして子孫の一人から古文書はあまりにも損傷がひどいので既に焼却してしまったとか聞いて大いに落胆したが、その後の紆余曲折を経て、ついに求める全巻を発見するに至ったのである。それは、小笠原家が代々引き継いで書き写してきたホツマ伝えの写本であった。
 小笠原家では、それまで世間から見向きもされなかった秘蔵の先祖伝来の古文書が、初めて世に出る兆しを見せたので大いに喜んだ。そしてホツマ伝えの全文を入手した松本善之助氏はホツマ研究の先駆者となっていった。


松本善之助・著「秘められた日本古代史ホツマツタヘ」のタイトル

謎の文様の謎は謎のままか?

さて、安閑石の手がかりを追って筆者は、高島市安曇川町へ再度赴いた。安閑石は以前に見学したのだが、今回は、まず文献にある田中神社を訪れてみた。やはり摂社の中に三尾神社があった。この古文献を神宝として擁してきたという三尾神社は現存しないのだ。

 次に訪れた市の教育委員会と歴史民族資料館で判明したことは次の二点である。一つには、高島市長が古代文字に関心が強く、そのためか、市民会館の玄関の石標にホツマ文字が掘り込まれている。
 次に、この地域の水尾神社にも同様にこの古文献が伝承され、幕末のころには研究が続けられ、そして近年になって同地の日吉神社で全巻が発見されたという。
 その水尾神社ゆかりの人が「高島市ホツマ研究会」を発足させた。(パンフレット「湖」No.158)
 さらに、滋賀銀行のパンフレット「湖」No.158の中に「安閑神社の謎の絵文字に迫る」というコラムがあった。このパンフは教育委員会で受領したものだが、高島市ホツマ研究会が発足していることも書かれていた。歴史民族資料館では研究会の会長の住所と電話番号を教えてもらった。そして、安曇川図書館と大津市立図書館には十数冊のホツマ関連の文献があることも判明した。安曇川図書館の書物は大半が貸し出し中で、ホツマゆかりの地ならでは、人々の関心が深いようだ。大津の図書館では、先述の松本氏の著書の一部のコピーを入手した。

さて、そろそろ、本稿の結論を出したいところだ。
 ホツマ伝えの内容は解明されているのであるから、ホツマ文字を読むことが出来たことになる。従って安閑石に刻まれた文様がホツマ文字ならば、その意味が分かっていなければならない。ところが、あの石に関しては、ホツマ文字に似たものがある、というだけだ。
ホツマ文字はネット上でも散見されるが、安閑石に刻まれた文様と比べると、あきらかな相違がある。安閑石の文様は大半が文字ではなく模様記号の類に見える。
安曇川町を訪れた当日はホツマ研究会の会長に会うことはできなかったが、後日電話で尋ねてみた。つまり、安閑石に描かれた文様はホツマ文字か否か、という質問である。
 会長の見解は筆者と同じく、「あの石の文様はホツマ文字ではないと思っている」というものであった。
 筆者のホツマ文献に関する知識は大変に乏しいものであるにも拘らず、「安閑神社の謎の絵文字に迫った」つもりではあったが、残念ながら何も掴むことは出来なかった。安閑石の謎は依然として古代歴史の深くそして濃い霧の中に包まれたままである。
 とはいうものの、この古文献にゆかりの地の人々がホツマ伝えを熱心に研究していることを知って、何故か心強く思うのだった。  
漢字伝来以前の日本には文字は存在しなかったという一般社会通念に抗して、ホツマを熱心に研究するという姿勢は貴重なものである。

参考文献

パンフレット「湖」No.158・(株)しがぎん経済文化センター編集・発行

安曇川町史編集委員会・編「安曇川町史」発行・安曇川町役場

安曇川町教育委員会・編「安曇川町昔ばなし」発行・安曇川町

安曇川町役場・編「あど川の文化と先人たち」発行・安曇川町

安曇川町教育委員会・編「安曇川町文化財50選」

松本善之助・著「秘められた日本古代史ホツマツタヘ」(株)毎日新聞社

宮地正典・著「新説・ホツマツタエ」(株)徳間書店

佐治芳彦・著「日本超古代史の謎」(株)日本文芸社

佐治芳彦・著「謎の神代文字」(株)徳間書店



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