中華と楚
周が商(殷)を倒し、周に従った諸侯を各地に任じました。これが中華の始まりです。周に従った諸侯(諸部族の長)が周王朝に命ぜられてそれぞれ支配した範囲は、今で言えば極めて狭い範囲です。概ね、黄河中流から下流の領域でした。
楚というのはそもそも周には従わなかった部族です。長江流域を支配していたのですから、黄河流域に起こった殷周革命とは無関係でした。しかし周の権威が高かった頃、周の権威を戴いた諸侯と長江流域を支配する楚の間で緊張が高まったのです。周王朝において極めて有力であった斉の桓公が諸侯を束ねて南の楚を攻めようとしました。楚の国力は非常に強かったのですが、さすがに斉が魯公(釐公)、宋公(桓公)、陳侯(宣公)、衛侯(文公)、鄭伯(文公)、許男(男爵・穆公)、曹伯(伯爵。昭公)を引き連れて攻めたため、楚は己が不利と考えました。
その時、楚の成王が連合軍に使者を派遣してこう伝えました。
「君は北海にあり、寡人(私)は南海にいる。馬牛を失っても互いの地に至ることはないほど離れているのに(「風馬牛不相及」。「風」は「失う」の意味)、君が我が地に来たのは何のためだ?」
斉の大臣管仲が答えました「昔、召康公が我が先君・太公(呂尚)にこう命じた。
『五侯九伯で従わない者がいたら、汝が征伐して周室を援けよ(西周成王二年参照)。』先君に与えられた責任の範囲は、東は海に至り、西は黄河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。汝が包茅(苞茅。草の名。楚が周王室に進貢することになっていました)を貢納しないため、王祭に必要な物が不足し、縮酒ができなくなった(周王室の祭祀では、祭壇の前に束ねた苞茅を立てて酒を注ぐ儀式がありました。酒糟が茎の中に溜まり、清められた酒が下に流れる様子を神が酒を飲む姿に見立てたようです。これを「縮酒」といいます)。我々はこれを譴責に来た。また、かつて昭王が南征して還らなかった(西周昭王十九年参照)。我々はこの罪を問いに来た。」
楚の成王が使者を通して答えました。
「進貢しなかったのは寡君(こちら)の罪だ。今後、怠ることはない。しかし昭王が還らなかったことに関しては、水浜に聞いてくれ。」
諸侯は軍を進めて陘(陘山。楚地)に駐軍しました。
妥協が成立したのです。苞茅は要するに草です。祭儀に必要な草ではありましたが、草は草です。斉公が率いた周連合軍は楚を攻める理由として「お前達は祭儀に必要な苞茅を献上しないので、周は祭祀が出来ない。だから攻めるのだ」と言い、それに対し楚は「そうか、分かった。苞茅を進貢しなかったのは悪かった。今後は進貢しよう」と誓ったのです。
「昭王が還らなかったことに関しては、水浜に聞いてくれ」というのはちょっと込み入った話です。周の昭王が南方長江流域を攻めたが、還らなかった。おそらくは戦に負けて殺されたのでしょう。連合軍はその罪を責めたが、楚は「それは知りません」と素知らぬ顔をしたのです。証拠はない、と言うわけです。
斉公を長とした連合軍は強大だったけれども、土地勘が無い長江流域で本格的に楚と戦って勝てるかどうかは微妙だった。一方楚はさすがに斉公を主にして諸侯が連合して攻めてきたから、戦って勝てるかどうか、楚も自信がなかった。お互いに陣を張り合うと自信がなかったから双方が妥協したのです。祭事に使う苞茅を献上しなさいと連合軍は言い、楚は分かったと言って戦を収めた。諸侯軍は陘(陘山。楚地)に駐軍したが、これは形ばかりであって、妥協が成立したから引き上げたのです。
このように、長江流域はかつて中華ではなかったのです。同様に西の秦も中華ではありませんでした。中華という概念が成立した頃は、概ね周王朝の権威が及んだ範囲が中華でした。楚は自ら中華ではなく蛮夷と主張し、その代わり周の爵位を認めず自ら王と名乗ったのです。周王朝の権威が及んだ地域では王は周王だけでしたから、周王朝が定めた爵位、公爵、侯爵、伯爵、子爵などを名乗ったのです。斉も当時は斉公、つまり斉の公爵だったのです。それに対し、楚は「自分は周の配下ではないから王と名乗る」とやった。
時代が下り戦国時代になると、周朝は衰退し、諸侯は周王を相手にしなくなりました。周王は弱小国の王に過ぎなくなったのです。そうなると、かつて公であった連中がそれぞれ王を名乗るようになりました。王が乱立したのです。その当時の各国の歴史記録を見ると、面白いことにそれぞれが自分を「中華」と称し、他国を「蛮夷」として扱うのです。斉に取っては斉が中華で、他国は蛮夷。韓、魏、超、つまり元の晋ですが、そこでも同じ。それぞれ自分を中華と呼び、他国を蛮夷と呼んでいます。
周王室の権威が認められていた頃は周王室に従う諸侯が支配する範囲が中華だったけれども、周王室が衰退すると皆それぞれ勝手に自分を中華と呼んだのです。
当然これは、やがて秦が中国を統一し、漢がそれを受け継いだとき、再び変わりました。秦や漢の長は王よりさらに上の皇帝を名乗り、その支配領域一帯を中華としたのです。皇帝が国のトップになり、皇室の王子達を各地に封して王と名乗らせました。権臣が王になったこともありますが、こういうのは邪魔者ですから策を弄して排除したのです。
中華という概念の昔々は、こう言うものでした。