地の塩

ある介護施設で責任ある立場の方があゆみ野クリニックの心療内科を受診されました。職場の勉強会で、他施設の素晴らしい介護の成功例を提示され、落ち込んでしまったというのです。



自分たちは力の限り頑張っているが、とてもあんなにちゃんとはやれてない。もっと利用者さんと向き合いたいのに、ある程度の立場になると役場との折衝やら報告書やらで忙殺され、現場になかなか目が行き届かない。自分は介護の仕事には向かないんじゃないかと思う・・・。



その方は最初介護士から身を起こし、ケアマネージャーの資格を取り、今は介護施設で責任ある立場にいる40後半の方でした。私の本職は老年内科、高齢者医療ですから、その方の悩み、現状は私がよく知っていることでした。そして高齢者医療の専門家として、私はその方が非常に真面目で、まっとうで、かつ優秀な介護職だということが理解出来たのです。



しばらく患者さんの話を聞いた後、私はこう言いました。



「私の専門は高齢者医療です。だから私は高齢者医療のエキスパートとして、あなたが実にまっとうで、真面目で、ご自分のやるべきことを日々きちんとこなしておられる方であることはよく分かります。そして介護の現場が書類作業に追われている現状も知っています。あなたはまさに、地の塩です」。



その方は「地の塩」という言葉をご存じなかったようで、そこでちょっと不思議そうな顔をしました。それで私はこう続けました。



「地の塩というのはですね。あなたは天を翔(かけ)る人ではない。有名人じゃないし、どこそこ大学の教授でもない。地べたを這って頑張っておられる方だ。しかし講演会に呼ばれる有名講師とか、どこそこ大学教授なんてものは臨床には係わっていないでしょう。ああ言う人は研究室でパソコン叩いて講演して名前を売ってるだけです。この地域を介護という立場で土台から支えているのは、あなたのような方々です。塩というのはありふれたものだけど、塩が無ければ生きていけないでしょう。だからあなたのような方を地の塩と言うんです」。



「勉強会で提示された成功例は、ゴールデンケースって奴です。とても上手くいったケースだからあちこちで紹介される。でもそれはその施設においても一番上手く行ったケースの筈です。もちろん勉強会で紹介するのですから、とても上手く行ったケースを紹介した。しかしその施設でも、いつもそんなに上手くやれているはずはないと思いますよ」。



それで患者さん、ああそうだったのかと納得されました。



「あなたはまだ40代後半だ。と言うことはあと20年、この地域を土台から支えて貰わなくちゃなりません。だから今日、私はあなたに人生の夏休みをあげましょう。一ヶ月休んでみなさい。その間旅行に行くのもよし、日頃はあまり読まない本を読んでみるのもよし。ここでちょっと一休みして、日々の業務に忙殺されている頭を切り替えてみてはどうでしょうか」。



それで私は診断書を書きました。曰わく、

「この患者さんは極めて真面目で優秀な介護職であり、それが為にゴールデンケースを見せられて自分たちがそこまでやれていないということに思いを馳せ、鬱状態になってしまった。しかしこの人は地の塩であり、この地域の介護を土台から支える一人である。この人はあまりにも日々の激務に忙殺され、心が疲れ切ってしまった。従って、今後もこの方がこの地域の介護を支え続けるために、一ヶ月の休職を要すると診断する」。



時々悩める患者さんの話を伺っていると本当に頭が下がる思いをすることがありますが、この方はそのお一人です。

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