私たちの責任

「国」が「国家」から分離したのは、非常に最近です。昔は「国家」でした。国家、つまり支配者一族(家)の私有物だったのです。



そうではない「国」という概念は、たかだか19世紀以降の概念です。「そうではない」と主張した哲学者は洋の東西を問わず古くからいましたが、実際に国というものが支配者の私有から脱したのは19世紀以降だった、と言うことです。



さて、支配者の私有物ではない「国」とは何か。それは「その国に属する人々の助け合いの仕組み」です。一人一人の人生は有為転変だ。何が起きるか分からない。しかも、老いれば皆弱者になる。その時、そういう人々をその国全体の人々が協力して支えましょう。それが「近代国家」です。



「国を守れ」。



しかし「守るべき国」とは、そういう支え合いのシステムをきちんとやっている「国」です。それが出来ていない国は、そもそも守る価値がない。



外敵に攻められた。軍を出して国を守る。しかし軍を出して国を守るというのは、若者の命を犠牲にするという事です。



若者の命は、今年60になる私の命より数億倍重くて貴重です。どのみち私の老後は限られていますが、20歳の若者には無限の可能性があります。その若者を戦地に送ってその人の命と引き換えに国を守る。それなら、その「国」はそれに相当する国で無ければなりません。



今日本という国は、若者一人の命すら犠牲にする価値があるでしょうか?



私は、まったくそうは思わない。これほど民を虚仮にする国、軽んじるばかりでなく馬鹿にする国。こんなものに、有事であっても若者一人の命すら、犠牲にする価値はない。



日本が何千年続いたかなどと言う事はどうでも宜しい。要するに今の日本国は、有事となったとき、若者を戦場に送って守らせる価値があるか?



ない。



ありません。



私は8月で60になります。少なくとも30歳から今年まで、私はこの国の現役でした。この30年間について、私はこの国、この社会に対して責任があります。こんな国にしてしまった。こんな情けない国にしてしまった。


今この国を守るために若者に戦場に出て命をかけろ・・・私はとても言えない。今の日本は、それに価する国ではない。しかし日本をそういう国にしてしまった責任は、「政府が悪い」と言ってもどうしようもない。その政府は、私たちが選んだのだ。棄権したにしても、棄権したことで我々は現政権を間接的に承認した。



我々はこの30年間、社会の中堅あるいは指導的立場にあり、かつ主権者だった。この国をこんなにしてしまったのは、我々です。我々に責任があるのです。



目覚めるのに遅すぎるという事はありません。いくら年老いても、目覚めるべきです。



立ち上がりましょう!こんな日本社会にしたのは、この30年間現役であり、かつ一定の年齢になってからは社会でそれなりの地位を占めた我々です。その我々が、こんな日本社会を作ったのです。



責任を取りましょう。若者に戦場に赴かせるより前に、そもそも守るべき社会、守るべき社会にするために、老骨に鞭打って・・・だってそれは私たちの責任なのですから・・・必死で頑張りましょう!!

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