劉邦と山本太郎

私は基本的には山本太郎にこの国の未来を委ねたいと考える一人である。彼を覧ていると、私は漢の劉邦を思い浮かべる。春秋戦国という千年近い戦乱を収束した秦が始皇帝亡き後ただちに滅んだ時、中国は再び千々に乱れた。多くの英雄が乱立したが、最終決戦は漢の劉邦対楚の項羽と決まった。



項羽は楚の名家の出である。生まれつき貴族であり、名声も高かった。物腰はまさに貴族のそれだった。その上戦に掛けては天才的で、戦えば必ず勝った。



それに対し劉邦は、生まれは楚の国、父は劉大公、母は劉媼というのだが、この大公とか媼というのは漠然と「おじさん、おばさん」という意味だ。つまり両親の本当の名は分からないのである。項羽が何代も続く楚の名家の生まれであったのに比べると、劉邦は「親の素性も分からない」というわけだ。



劉邦と項羽は何度も戦火を交える。実は戦う度に項羽が勝つのだ。劉邦はどこの馬の骨か分からず、項羽は貴族として教養があり孫子の戦法も心得ていたので、両者が戦うと決まって項羽が勝った。



ところがここで不思議なことが起こる。項羽と劉邦が戦うと必ず項羽が勝つのだが、そのたびに劉邦の味方が増えるのだ。



項羽は誉れ高い貴族だから、物腰は上品だが反面冷酷でもあった。敵が服属するとまことに丁重に扱ったが、「これは背く」とみるやいなやバッサリ切って捨てた。一方劉邦は物言いも粗野で気に入らないとすぐ「馬鹿野郎!」「テメーラなんぞ!」などと罵倒したが、どういうわけか部下に好かれた。劉邦は元々地方の下っ端役人だった。という説すら実は彼を持ち上げすぎていて、実際はよく言えば任侠、率直に言えば口先の上手い詐欺師の手合いだったらしい。まあ何はともあれ彼は口先三寸で地方の役場に潜り込んだ。時の秦政府から土木工事に人員徴用の命が出され、人夫を率いて現場に向かったのだが、あまりの難路で皆逃げ出してしまう。秦の法は厳しく、こうした場合逃げ出したものだけでなく率いるものもその責任を取らされて死罪と決まっていた。どうせ死罪になるなら、と劉邦は残った連中を集めて反乱に身を投じたのだ。この辺も、我こそは戦国の雄楚の末なり、西戎の秦など何するものぞ、という項羽とはまったくレベルが違う。当時劉邦のような連中はゴロゴロいたのだ。



劉邦と項羽では、側近達もレベルが違う。楚の名将項羽の元には中国全土からその名を知れた人々が次の中国の支配者にふさわしいとしてはせ参じるが、劉邦の側近として名前が挙がるのは蕭何や曾参のような連中だ。蕭何と曾参はともに田舎の刑務所の役人で、蕭何の方が上役だった。劉邦が蕭何を引き立てたのは、字が読めて金勘定が出来るからだった。逆に言えば、劉邦は文字も読めなければ計算も出来なかったのだ。



劉邦は蕭何と曾参を連れてどうにか沛の県令となったものの(中国の県は市の下。今でも同じ)、その後勝った負けたをくり返してなかなかうだつが上がらない。しかしある時張良に出会ったことが彼を乱世の英雄にのし上げた。張良は何処の馬の骨とも知れない劉邦はもちろん、田舎役人の蕭何や曾参などとは比較にならない名士で、彼らが全く知らないもの、「兵法」を身につけていた。劉邦は張良を師と仰ぎ、教えを熱心に請うた。どうやら劉邦は人の心を動かす達人であったようで、張良はこの何処の馬の骨とも知らない、勝ったり負けたりさっぱりうだつが上がらない劉邦を気に入り、軍師になった。



このように、劉邦自身は無知文盲だったが、並み居る人々を味方にするたぐいまれな才能を持っていた。粗野な性格は晩年に至るまで変わらなかったが、周りの人々は何かにつけて劉邦が自分を頼りにするので、いわば劉邦をかわいがったのだ。



そして劉邦と項羽が秦を倒し、どちらが中国の主となるか垓下で最後の決戦に挑んだ時、天下の名将項羽の陣営には、愛する虞美人と愛馬騅(すい)の他、ごく僅かの忠臣しか残らなかった。周りを取り囲む敵陣からたくさんの楚の歌が聞こえてきて、項羽は故国楚の人々でさえ自分を見限ったことを知り、四面楚歌と嘆いて虞美人に別れの歌を歌う。


力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)
騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 奈何すべき)
虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん)



項羽は僅か800の手勢を連れて劉邦の包囲を突破するが途中で追いつかれ、自刃した。



中国全土にその名を知られた名将項羽に何処の馬の骨とも知れず、文字も読めず計算も出来なかった劉邦が勝ったのは、ひとえに味方を集める才に長けていたからだった。蕭何は計算が出来るというので重用され、後に総理大臣(相国)にまでなった。張良は劉邦より遙かに身分が高かったが、軍師として劉邦軍を支えた。劉邦は自らが無知であることを知っており、味方を愛し、信頼した。また信頼出来ない相手も大風呂敷を広げて引きつけてしまった。反乱の疑いを掛けたものはためらいなく切って捨てた項羽とは大違いだった。劉邦は、優れたものを味方に付けることによって天下を取った。山本太郎によく似ている。しかし劉邦は、自分に才能が無くても、人の才能を見抜くのに長けていた。それが本能的に上手かった。山本太郎はどうだろうか?山本太郎の取り巻きを覧ていると、私は時々不安を隠せない。

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