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小豆を茹でるときに思うこと

お汁粉の小豆がうまくできるようになる頃。決まって正月営業は終了します。そして来年
この雪の降る今日に夏の暑さを忘れているように
積み重ねもなくまた一から小豆を茹でるのです。

小豆を茹でていると、
「あん」という映画の樹木希林の言葉を思い出します。
小豆の声を聞く、雨の日や風の日をどう過ごしてきたのか
小豆の声を聞く。いまいち覚えてませんが、そんな感じのセリフです。

とてもよくわかるのです。
僕も僕と偶然出会うまでの雨の日や風の日や穏やかな日を聞きたいのです。
本当に心から聞きたいのです。
なのに、なのに僕はとても馬鹿なので
悲しいくらい馬鹿なので、その気持ちを、その目的を忘れてしまうのです。
手のひらに書いておきたいくらい、いや、書くことしよう。
そしていざというとき手のひらを見てみたら「スキ」って書いてあって
なんのことだか、なんで名前書いてないんだよと。
映画館でズッコケそうになりましたけど、それは隕石が落ちてくる映画の方です。
ほらね、こんな感じで目的や気持ちを忘れて
好きなこと話し始めてしまうのです。

大事なことになればなるほど
本当に話したいことを突き詰めてしまうから
この一言でもうそれが全てみたいになります。
でも、たくさんの気持ちを凝縮して一言にしてしまうので
あまりの重たさというか、魂の乗り具合に
なかなか言葉が出せないのです。
出せないから抱えるしかない。
必死に抱えてるから話を聞くという大事なことや、本当にしたいことや、
しなければならないことに気が回らない。
ただ淡々と、よくわからない誰も嬉しくない時間が過ぎます。


もう一つ、その映画「あん」のラストシーンで
永瀬正敏が「おいしいどら焼きいかがですかー」と叫ぶところ
僕はどうしても、何度見ても泣いてしまいます。
映画「怒り」の広瀬すずが海岸で走り出すラストシーンもそうですけど
人が意を決して変わる瞬間
そういうものに感動してしまうのかもしれないです。

ちょっと真面目な話をしますが、
少しそれについて考えることがあるのです。

人は大概ボートを漕ぐように
未来へと後ろ向きに今をかき分け、過ぎた白波に思いを馳せるものですが
大事なものはいつだって、その白波の中に見え隠れします。

そして遠くに過ぎれば過ぎるほど
本当のことが見えてきて、
大事な人の本当の姿や、本当の気持ちや、本当の望み。
間違えていたこと、傷つけてしまっていたこと
いろいろなことが明確になってきたり
確信めいたものを見つけてしまったりします。

でも、大事なものはすでに遠く、大事な人はどこへボートを向けたのか。

この広い世界、闇雲に探しても見つけられません。
声を頼りに向かうとしても
その声が幸福ならば行けるはずもなく
ならば不幸の声を待つのです。なんて業の深いことか。

ただ、
闇雲に探そうが、不幸の狼煙を待とうが
人の継続なんて期待外れで
そうこうしているうちに、
気がつけば焦燥感は薄れ、思いは離散
多少の傷は残しますが、そのうちそれも塞がるのでしょう。
でもそれは幸福でもあります。
大事な人の不幸を望むなんて、やっぱりあってはならないことですから。

まあ、これは一例に過ぎず、こういうことがある人もない人もいますけど
大事なことは、これは頭の中、考えに過ぎません。
誰にもどこにも声に出していない。
現実の世界に実際に投げられていない言葉です。

やっぱり思うのです。ちゃんと声をあげなきゃって。
文字にしてもいいし、声に出してもいいし
ちゃんと現実に表現しないと何も起きない。

もちろん、仮に叫べたとして
その声を頼りに大事な人が戻ってくることは
初恋が叶う程度に無理なこと
でも自分が変われる気がします。

頭の中でたくさん葛藤してすべきことを見つけて
意を決することができたなら、現実に叫ぶ。
自分の殻を破ることも、今いる場所から飛び出すこともできる。
ちゃんと変われるんじゃないかなって
なんとなく思いました。


こんな年齢なんですが、変わりたいですよね。
もちろん朝起きたら田舎の女子高生とかじゃなく。
そうだ、これだけは言いたい
こんな僕にうんざりしているのは従業員だけではない
僕自身もなのだと。
まずはそれを叫んでみます。
すぐ忘れちゃうから、手のひらに書いておこう。







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