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親の愛を知らない父に子から無償の愛情を押しつける

僕が家族や友人を大事にする大きな理由は父の生い立ちにある。父は3歳の時に病気で母を亡くし、妻の死に立ち直れなかった夫である父の父はアルコールによる階段から落下して亡くなった。父は小5か小6(本人はよく覚えてない)で両親を失い、無償の愛情を受ける事なく大人になった。

両親を亡くした父の子供の頃の写真は10枚もない。父を引き取って育てた叔母。当時はとても貧しく、子供ひとり引き取るのも大変だっただろう。中学生から瓦を運ぶ仕事をしながら学校へ行き、その収入は叔母へ。

そんな貧しい時代だった。

金の卵時代の就職で大企業に就職した父は関東で再会した同郷の母と結婚した。まもなく僕や弟が生まれ、大事に育てられた。

僕が野球にハマれば、キャッチボールしてくれ、部活で剣道にハマれば、いつもついてきてくれた。ミニ四駆にハマれば一緒に作ってレース場を作ってくれ、エアガンにハマれば、ガス銃も買ってマトを作ったりして遊んだ。

ある時、まだ弟が3歳くらいの小さな時に、父が酔っ払って夜、僕らを追い回した時があった。たまたま弟の調子が悪かったのか「怖いー」と泣いてしまい、しらけてしまった父は急に泣き出した。

しばらく泣いていて、そんな父の姿を初めて見た僕はどうしていいのかわからなかったから母を呼ぶと父は僕らに「お前らは母ちゃんがいていいなー」と言った。その時、僕は父の生い立ちは知らなかった。僕にとってのおばあちゃんは母方しかいないのが普通だったから。

それ以降、そんな父の姿を見る事なかった。

父は家族がいても消えない孤独の中にいた事を知った。数年前、アルコール依存が酷くなっていた時期、祖父と同じ様に階段から落ち首の骨を折った。父から電話で呼ばれ駆けつけ病院へ行ったが、アルコール依存を理由に入院拒否された。しばらく父の家に泊まる覚悟をし、自宅に服などを取りに行った数時間の間に酩酊状態で徘徊し、警察から連絡があった。

一瞬も目が離せない日が続いた。

大変な状態になって初めて、僕は父がどんな思いを持って生きてきたか感じた。

幻覚が見え、言葉にならない声で何かを訴えている。意識を取り戻したかのような穏やかな表情をしたかと思えば、冷たい目をして僕を見る。背筋がゾクっとするような目で、いたたまれなくなる。かと思えば、泣き出し叫び続ける。

強がっていた父から孤独で辛くて全てどうでもいいという思いが伝わった。死に急ぐように焼酎を飲み続ける。僕は疲れから一瞬よからぬ事を考えてしまった。

以前アルコール依存の家族としてかかっていた病院にお願いをしていた。そこから連絡をいただき、僕の責任の元、強制入院をお願いできた。最長3ヶ月。その間父の身辺整理をした。物は少ない。それが一層寂しさを増大させた。

夫としてはどうしようもなかったんだが、僕らの父としては良い父だった。だから余計に、アルコール依存でボロボロの姿になった事実を受け入れられなかったが、目の前には「小人」が見える父の姿がある。これが現実なのだ。

そして現在、一人暮らしができている。アルコールはやめてはないが、もうそこまでは言わない。週に一度もしくは父に呼ばれた時は会いに行く。すると、料理ができなかった父がたまに僕にご飯を作ってくれる。繋がったネギ(上の写真)、かたまり肉を使って中が生焼けでも僕は嬉しかった。

そんな生い立ちの父、最後くらいは寂しくなく穏やかでいてほしいと思うから、僕はここにいる。これは僕が後悔しない為でもある。
義務感で生きる事ー




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