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「消費者コンプレックス」という不治の病

「消費者コンプレックス」という単語をご存知だろうか。

言葉の意味としては

絵・音楽や文章をはじめとする創作物を自ら生み出す「生産者」ではなく、ただそれらを享受するだけの「消費者」であることに対し、一種の嫌悪感を抱き、ついには「消費者」でいることすら辛くなること。

私が知る限りこの単語は、バーチャルyoutuberの卯月コウが言語化したと認識している。けれども、きっと昔からこの概念は我々の形而上に存在していて、数多の人々を悩ませていたに違いない。

とはいえこの問題は、インターネットの時代においてより重みを増している。
現代ではそれこそ誰でも自らの創作物を発信することができる。小説だろうが音楽だろうが、絵だって簡単に世に送り出すことができる。しかも趣味で始めた人でもいつの間にかプロとして活躍していたりする。
さらに言えば最近はこうした文芸に囚われず、いろんな形で「生産者」になることができてしまう。
それに目に入るものは大抵とんでもなく上手い。
だから何もできず、ただそれらを享受することしかできない自分には一体どんな価値があるのだろうか?何を世に残せるのだろうか?
と辟易してしまうのだ。

気にしたことがない人からすると、なぜそんなことで悩んでいるんだ?と疑問に思われることだろう。そしてこう思うはずだ。
「だったら君も何か始めてみればいい、実力も人気も場合によっては、じきについてくるかもしれないじゃないか」と。

この言説はこの上ない正論である。もちろん頭では理解しているつもりなのだ。
どんな「生産者」も皆駆け出しのころがあったことを。
「生産者」に比べ「消費者」の方が多いことを。

「消費者」が存在しなければ「生産者」が成り立たないことを。
数多の日の目を見ない「生産者」が存在していることを。
しかし得てして、拗らせている人間は「生産者」に対するハードルが高い。視界に入るものはみんな人気だし上手いから、何か始めるにしてもその領域で戦えるわけがないと思ってしまい、途中で挫折したり、端からあきらめてしまう。実際はそんなことなど無いのにもかかわらず。

こうして考えてみると「消費者」であることに対してではなく、「生産者」に憧れつつも行動を起こせない自分に対しての苛立ちみたいなものが「消費者コンプレックス」の根底にあるのかもしれない。

このことに対して卯月コウは一つの回答をしている。
「配信をするにあたってはコメントがないと成り立たないわけだから、それだけでも意味がある」と。
これは救いだと思う。「生産者」を目指してあがくにしろ、「消費者」に甘んじるにしろどこかで割り切らないといけない時が訪れる。
結局のところ根底には自己肯定感とか自己顕示欲があるわけだから、こうして居場所を、何よりも「生産者」の視点から提示してくれることは紛れもなく救いだ。

昔世界史の先生がこんな話をしていた。
日記なんて書くものじゃない。もしなんかの拍子に自分が歴史に名を残すようなことがあれば、その日記は多くの人に読まれることになる。しかも半永久的にそれは保存されることになるぞ。
なるほど確かに、日記というものは歴史上の人物を研究する上でとても大事な要素だ。そして大概の人間はまさか自分の日記が後世まで残ると思って書いていないだろう。

とすると自分の価値とか物の価値だとかは、自分で決めれるようで大方は周りの人間や後世の人が決めるのかなと思う。
私は「生産者」になれたつもりは微塵もないけれど、このnoteも誰かからすると価値のある「生産者」の活動に見えているのかもしれない。
そしていつか、こごみbotの研究に役立つ時が来ると信じて書いていれば多少は症状が緩和されるのかなと思って、私は時折noteを開いている。

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