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可否爺さん 三

 「人間はどんなことにも慣れられる存在」と云うのはフランクルが『夜と霧』の中でも引用したドストエフスキィの言葉だが此れには思い出がある。繁忙期に備え人を募集する引越し屋の仕事は春休みの日課であった。三年目にもなると二月初めに向うから電話が掛かって来る。「今年も手伝えないか?」勿論喜んで引き受ける。時給が千二百円もあるので三四月をフルタイムで出勤するとふた月で七拾万稼ぐ事が出来る。然し六時から九時迄十五時間労働の為躰は痛み本を読む事もままならない。初めての現場は大学教授か何かの引っ越しであったのだろう。部屋に入ると段ボウルが天井まで積まれて有り中身は全て本で有った。エレベエタア無しの四階を段ボウルを持ち何往復もした。本を詰めた段ボウルという物は引っ越し荷物の中でも一番の重量になる。此の時ほど本を憎んだ事は無い。先輩が部屋から箱を卸し社員がトラックに積込し新人の私が間に挟まる形になった。リレイ方式で階段を走って上り下りし箱を手渡す。三十分程作業すると心臓が脈を打ち始めた。目眩と吐気があり階段にへたれ込んだ。先輩が心配して下りて来た。「少し休むか?」社員も上がって来た。「あまり無理するな」リレイ方式で私が箱を運ぶ距離は時間に比例し縮んでいたが二人は文句ひとつ云わなかった。情けなくなり「全然大丈夫です」虚勢を張った。其れにしてもあの阿呆は一体どんな本を熱心に読んでいるのか? 此の箱の中には何が詰まって居る? 睨むと細文字でドストエフスキィと書いて有り笑った。「人間はどんなことにも慣れられる存在」シベリアに流刑されたドストエフスキィが云うのだから大丈夫なのだろう。そう思うと元気が出て来た。まさかドストエフスキィに励まされるとは思わなかった。此れが限界だと思った所から一踏ん張りすると躰が軽くなった。冷たい嘔気が無くなり熱い汗が吹き出した。足取りも軽くなり何とかやり終える事が出来た。作業完了の確認を取りトラックを出すと「あれは酷かった」と社員と先輩が話し始めた。二人の云う所日本の法律では四階以上の建物にエレベエタを付ける義務があり即ちエレベエタ無しの四階という物件が先ず不運である。其処へもってあの大量の本で有る。今回の現場は「地獄」であった。「初めての現場でお前はついてない」「普段はこんなにきつい訳じゃないから辞めるなよ」そう云われてぎくっとした。実は階段を上り下りしている時もう辞めようと思って居た。後程分かった事であるが引っ越し屋の仕事は入って数日で辞める者が多い。其れだから二月の暇な時期にある程度大量に採用して振いをかけ繁忙期に備える。甘い缶コーヒーを奢られた。一仕事終えトラックの助手席で呑むコーヒーは生涯最高の味で在ったかもしれない。私が踏ん張れたのは一杯の缶コーヒーとドストエフスキィの御蔭であった。

 翌朝起きると躰が悲鳴をあげて居た。「休もうかな」咄嗟に思ったが社員と先輩の顔が浮かび義理で出勤すると新人が五人減って居た。景気付けにジュウスじゃんけんを遣ろうと云う事となり三十人程の大会が始まった。なんと私は負けた。三千円の出費である。昨日現場で一緒になった社員が「はじめてだから、しょうがないな…」変りに負担してくれた。恩を感じて又奢られた缶コーヒーを呑んだ。今では私が新人に奢り恩返しをして居る。此処ではじゃんけん大会が毎日の景気付けの様で有り御蔭で随分じゃんけんに強くなった。一週間踏ん張り出勤するとドストエフスキィの助言通り躰が慣れて来た。此処まで残った者でもう辞める者はなかた。人間関係が出来今年のチイムが出来仕事が楽しくなって来た。云うまでもなく引っ越し屋の任務は「移動」する事である。朝お客さんの所に出向いて挨拶を済ませて梱包し荷物を運ぶ。途中コンビニに立ち寄って昼飯をかきこみ越し先へ向かい荷物を降ろす。夕方会社に戻ってトラックを清掃し全ての作業を終えて缶コーヒーを呑みながら一服し夕暮れの光線を浴びて居ると何とも云えぬ爽快感があった。其れは今日一日を使いお客さんの「移動」を終える事が出来たという満足感で在る。引っ越し屋は毎日お客さんの人生の「移動」に係わる仕事で有り余り人との接触が無いものと思っていたがそうで無かった。「有り難う」と云う言葉を直接受け取る事が出来る。其処が工場や工事現場等の肉体労働とは異なる所で有りよく考えると我々は赤の他人の家庭に侵入し最も身近な物に触れて居るので有る。お客さんは何故ああも親切なのか知らん、そう考え気付いた事が我々の接するお客さんは殆んど家庭の主婦で有る。奥さんは「有り難う」と云う言葉と共にジュウス類、菓子類、お握り、栄養ドリンク、時には近所のとんかつ屋を予約し昼食を御馳走してくれる家庭迄有る。果てには「ほんの気持ちで…」とスマアトに祝儀袋を渡して来るので有る。其れで野暮な話になる訳だが我々は夕方全員で集まり現場事に渡された祝儀袋を集めて総取りのじゃんけん大会を開催するので有る。勝者は伍萬や拾万のボウナスを手にする事と成り其の様な朝夕のじゃんけん大会を我々は景気づけの為毎日開催して居る。然し其れにしても持ち物は持ち主を表象すると云う事をつくづく実感させられる事が有る。或る日のこと豪邸で一トンを超える金庫を六人掛かりで運び出した。物の持ち方にはある程度のコツが有り自分のベルトを利用すれば冷蔵庫洗濯機等は案外一人でも楽に持てる訳だが然し物が巨大な金庫となると可成り手古摺る。考えてみると一台の車を六人の腕だけで持ち上げて居るので有り腕がちぎれんばかりで有る。連帯責任の為力を抜く訳にもいかず少しでも気をゆるめると腰が砕けそうな予感が有る。其れで御祝儀は如何程なものかと期待をし袋を開くと三千円で有り笑った。ありふれた家庭の主婦は実に親切であるが金持ちは実にけちで在る。

 所で此の様に仕事を持ちながら学校へ通って居ると法学部の勉強は法解釈を経験的に学ぶだけで有り実に退屈なもので有る。今此れ程の時間を勉強に費やし一体何に成るのかと疑問に思えて来るが何に成りたいのかが分からないから何となく勉強するので有る。勿論偶にはキラリと光るものに出くわす事も有る。例えば一八世紀の法哲学等が其れである訳だが而しロックやルソーを個人的に読み始めると学業が気抜けの炭酸水を飲まされている様で有り気が抜ける。同級生のK君等は凄まじい時間を弁護士資格習得に費やして居るが其れ程勉強し弁護士に就職した所で一体何に成るのか? 其れよりも此れからの時代は兎に角経済的な独立を望むべきだと思う。しかし其れなら独立と学業にはどの様な弁証法的綜合が有るのか? この自然と制度の二項対立は脱構築可能なのか? 学業は社会に出る為の準備で有ると先生方は仰る。然しアクチュアルな学びとはドストエフスキィを読みながら缶コーヒーを呑む事で在る。私は学校より仕事を優先させるように成って居った。勉強とは「今・此処に・在る」という行為の連続で在り私は将来「何に成るのか」という事よりも現在「何で在るのか」という事に己のアテンションを修正する必要が有る。大体其のような事を考えながら久々の休みに可否爺さんの店へ向かっていた。

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