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ベルクソン『創造的進化』を語る〔植物と動物〕

 愉快な気分で読み終え、本を閉じ直ぐに思ったことは「はて、この本には一体何が書いてあったのか?」である。

 ベルクソンの『創造的進化』は、これまで読んできた如何なる哲学書ともちがっている。
 これって、哲学? もしかして、神秘主義? スピリチュアル?
 いやいや、ベルクソンは生物学を基礎としながら、われわれを問題の彼方まで運んでいく。

 その推論は目的論と機械論にはじまり、有機物と無機物、持続、物質、記憶、意識、生命、進化、歴史、自由、直感、など多岐に渡り、とても手に負えるものではない。

 しかし、わたしはこの本についてちょっと書いてみたいと思った。
 自分が一体何を読んでいたのか? 書きながら知りたいと思った。

 第二章〔植物と動物〕から抜粋し書き留める。
 ※引用文は所々中略し恣意的に繋いでいます。詳しくは是非本文をお読みください。

 植物を動物から区別する正確な特徴はないが、傾向を考慮するなら、植物と動物を正確に定義し、区別することが可能であり、それらが生命の二つの分岐する発達に対応していることが分かる。

 ベルクソンははじめる。

 分岐はまず栄養の取り方において際立つ。植物は直接〔空気、水、土〕から生命の維持に必要な諸要素、とりわけ〔炭素、窒素〕を借りてくる。植物は無機物の形でそれらを摂取する。逆に動物が同じ要素を自分のものにできるのは、それらが動物のために有機物に固定された場合だけである。この固定は植物によって、もしくは植物のおかげでそれらの要素を手にしている動物によって行われる。したがって、最終的には植物が動物に栄養を与えていることになる。

 なるほど、確かににそうだ。ここまでは納得である。

 すなわち、植物を動物から区別するのは〔空気、土、水〕から直接獲得する無機物を使って有機物を創造する能力である。しかしこの差異に、もうひとつよりいっそう深い差異が結び付く。

 何だ?

 動物は遍在する炭素と窒素を直接固定することができないので、それらを摂取するために、それらの元素をすでに固定した植物か、それらを植物界から受け取った動物を探さざるをえない。それゆえ動物は必然的に移動する能力を持つ。動物の生の一般的な方向は空間における可能性によって特徴付けられる。

 なるほど。動物は自由に移動することができる。しかし植物の細胞はセルロースの膜に覆われているので、不動の状態に追い込まれている。と言うか、植物は〔大気、水、土〕の中に鉱物の元素を見つけて直接自分のものにするから、その場から動く必要がない。要するに、植物と動物を区別するものは〔固定性〕と〔移動性〕である。うん、これもよく分かる話だ。しかし、ベルクソンの演繹はここからどんどんアクチュアルになっていく…

 〔固定性〕は、ある方向にそれ以上進化することへの拒否として現れる。地面に固定され、栄養を見つける植物が、いったいどのようにして意識的な活動性の方向に発達できただろうか? 原形質を包むセルロースの膜のおかげで有機体は大部分の外的刺激から免れ、植物を無意識な状態にする。要するに、鉱物を使って有機物を直接作り出す植物は総じて運動すること、ひいては、感覚することを免れ、意識は眠りに落ちる。
 〔移動性〕は、行動の方向と、その結果徐々に判明になる意識の方向として現れる。動物は自分の栄養を探しに行かざるをえないので、外的刺激が感覚性をかき立てるものとして働きかけ、動物が眠りに落ちるのを妨げる。動物の生の一般的な方向は空間における可動性によって特徴付けられる。

 つまり〔意識〕は、運動性との間に明白な関係があるということだ。いやしかし、脳科学があるではないか? そのような問いがあるかもしれない。『物質と記憶』で詳しく研究されていることだが、ベルクソンは脳と意識(場合によって記憶)は関係がない、と言っている。多分…

 われわれの考えでは、脳は一種の中央電話局以外のものではありえない。その役割は「通話させること」もしくは、それを「待機」の状態に置くことである。脳はそれが受容するものに何も付け加えない。『物質と記憶』

 じつに洒落た比喩であり文章である(さすがノーベル文学賞!)わたしはカントは1日5ページが限界だが、ベルクソンは50ページいける。しかし、読んだ内容は大体忘れているのだ。だからこそ、こうして書きとめている。ところでなぜベルクソンの文章は忘れていくのか? 考え気がついたことがある。所々のセンテンスで追及していた命題に対し、語尾が激的に飛躍していく部分があるのだ。例えば次のような文章である。

 神経系の存在は、かかる運動性や選択、ひいては意識の必要条件ではない。神経系は、有機的組織化された物質の固まりに散らばった、未発達の漠たる活動性を、運河のように決まった方向に差し向け、強めているだけである。動物の系列を下がっていくと、神経の諸中核が単純になり、互いに離れる。最終的に、神経の諸要素は、分化の進んでいない有機体の全体の中に沈んで、消えてしまう。しかし他のすべての器官、他のすべての解剖学的な要素についても同じことが言える。ある動物が脳を持たないからといって意識を認めないのは、胃を持たないので栄養摂取ができないというくらい、ばかげたことだろう。

 ん? いま何て言った? 最後の部分…

 ある動物が脳を持たないからといって意識を認めないのは、胃を持たないので栄養摂取ができないというくらい、ばかげたことだろう。

 どういうこと? 読者はもやもやした感想を抱きながら読み進める。すると以下ような文章が接続詞となってたたみかけてくる。

 つまり、最も低次の生物でも、それが自由に動く限り、意識的である。さてここで意識は運動に対して結果であろうか原因であろうか?

 これは貝とか海月のことを言っているのだろうか?

 運動の自由を取り戻した植物において意識はおそらく眼を覚ます。植物がこの自由を取り戻した範囲に正確に応じて、意識は眼を覚ますのである。

 …この人何言ってんの? 植物が眼を覚ますって…? 具体例を頭の中で考えていると、次ような映像が浮かんできた…

 https://www.youtube.com/watch?v=b-SNedO-5lw

 あっ! わたしは直感した。この話しって、志賀直哉の…『城の崎にて』じゃねーか、あっ! あっ!

 生命の進化を研究する『創造的進化』という本。じつは認識論ではなく、存在論なのである。
 次回、わたしは志賀直哉を使いながらエラン・ヴィタルを語ることに挑戦したい。


 今回の話を少しまとめておこう。

 A.植物と動物の細胞は共通の根から発生した。最初に生命を持った有機体は植物と動物の形態の間で揺れ、そのどちらをも帯びていた。植物と動物を遡れば共通の祖先に辿り着き、この祖先は生まれつつある状態で両方の傾向を結びつけていた。

 B.二つの傾向は未発達的な形式では互いに含み合っていたが、増大するにつれて互いに分離した。そこから固定性ならび無感覚をもった植物の世界と、運動性ならび意識を伴った動物とが生じた。

 次回の命題として、最後にベルクソンの植物に対するある指摘を書きとめておこう。

 植物は、炭素ガス中の炭素と酸素の結び付きを断ち切るために太陽の放射エネルギーを使うとき、そのエネルギーの方向を曲げる。思うに、植物において動物の指導意志に対応するのは、この方向の変更である。植物において動物の感覚能力に対応するのは、そのクロロフィル(光合成の反応で光エネルギーを吸収する役割)の全く特殊な感光性である。さて、神経系は何よりもまず先に感覚と意志の媒介物として役立つメカニズムであるので、植物の真の「神経系」はクロロフィルの感光性とでんぷんの産出の媒介物として役立つメカニズム、あるいは独特な科学的過程であるようにわれわれには思える。つまり、植物が神経要素を持つはずがない。また、動物に神経と神経中核を持たせたのと同じ弾みが、植物においては、クロロフィルの機能に至ったに違いない。

 じつに愉快な指摘である!

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