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『伊豆の踊子』読書感想文

 web上の読書会に提出した感想文を添付します。

 タイトル:いきな私

 個人的な趣味ですが、この作家の、主観的な美を曖昧な感覚で詩的に飛躍させたような文章がやや苦手で、読んでいてしんどいなぁと思うこともありました。

 しかし今回読書会に参加する為あらためて四十ページを集中し読んでいると、これは「いき」という美学概念を説明するのにぴったりな話しなのではないかと感じる所があり、ひとつその辺りから粗筋をおってみようと思います。

 九鬼周造曰く「いき」とは、諦めを得た媚態が意気地の自由に生きること。

 二十歳の高等学校の学生で、伊豆の旅に出て四日目になる私は、ひとつの「期待」を空想しながら道を急ぎます。
 旅は道連れ、世は情。
 私は親しくなった旅芸人一行と一緒に下田まで旅をすることになります。

 その夜、激しい雨の音に響く太鼓と三味線と酒宴の声に耳を澄ませ、私の神経は昂騰しますが、翌朝、共同湯の中で若桐のような踊子の姿を見て冒頭より私に持続していた媚態のヴェールが剥がれます。

 私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上る程に子供なんだな。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。

 作者の筆はここから踊子の実存をほのめかします。
 私はこの旅芸人が親兄弟であることを知りますが、この踊子はおふくろに抑圧されているのでしょうか?
 「碁盤の上へ覆いかぶさる」という表現や、本を読んでもらう時の癖となった仕草に、作者は踊子のエロティシズムを暗喩しているのでしょうか?

 旅芸人の旅心に肉親らしい愛情な繋がりを感じた私は、踊子に対し身をわきまえ自己に対する制約で距離をおく「意気地」の美学を実践しますが、ここで私の自我に「孤児根性の歪み」があることが突然読者に知らされます。
 私は憂鬱に耐え切れないおもいで、伊豆の旅に出たのでした。

 下田に着いた踊子はおふくろに活動映画に行かせてもえるようせがみますが、承知されません。
 その様子を見た私はわけもなく涙きます。
 出立の朝、乗船場に行くと踊子の姿があります。私は色々話しかけてみますが、踊子は一言も言いません。

 私は、汽船の中で美しい空虚な気持ち、何もかもが一つに融け合うような甘い快さの感覚を味わいながら、清々しい満足の中で泣きます。
 私の自我は癒されたのでしょうか。

 この感情を、世間の裏切りによって得られる無常の「諦め」と言ってもいまいち腑に落ちません。
 もう一度はじめから読み返してみると、物語冒頭で現れる到底生物と思えない茶屋の爺を入口(タナトス)末尾で現れる乳呑児がくくりつけられた老婆を出口(エロス)汽船で出会った少年を再生として暗喩するなら、この物語はそれ自体で異化された「私の自我の旅」のようにも読めます。

 村上春樹の『騎士団長殺し』で主人公がメタファーに引きずられて入った穴の中の世界さながら、完全にあちら側の話なのかな、なんだか不思議な話だな、と思いました。

 おわり

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