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『呪われた部分』産業社会

資本主義社会は一般に人間を物に(商品に)還元するという事実に逆行することはできない。
物とは我々が外部から認識していて、物理的現実として我々に与えられているもののことである。我々は物のなかへ入っていくことはできない。物は、物質的な特質以外の意味を持たない。この特質は、生産的という意味での有用性に適合させられていても、そうでなくてもいい。
だが例えば、教会堂は内的な感情を表現し、また内的な感情に語りかけている。もちろん教会堂は建物という物である。しかし納屋は真に物であって、この物は収穫物の収納に適合させられている。この物は物理的な特質に還元させられている。人は、この物に期待した利点に照らして使用料を見積もり、そうしてこの物に物理的な特質を与え、この物を使用に従属させたのだ。これとは逆に、教会堂における内奥性の表現は、労働の空しい蕩尽に対応している。最初からこの建物はその目的によって物理的な有用性から引き離されている。この最初の動きは空しい装飾の多さのなかで際立っている。そもそも教会堂の建設は、使用可能な労働を功利的に用いるということではなく、この労働を蕩尽すること、この労働の有用性を破壊することにあるのだ。内奥性は、ただ一つの条件でのみ、一個の物によって表現される。すなわち、この物が根本において物とは反対の事態、製品、商品とは反対の事態であるという条件、すなわち蕩尽と供犠であるという条件だ。じっさい内奥の感情とは蕩尽なのであって、それゆえ、物ではなく蕩尽こそが内奥の感情を表現しているのである。物は内奥の感情の否定なのだ。資本主義の中産市民階級は教会堂の建設を二の次にして、工場の建設を優先した。
資本主義は、ある意味で、無条件に物に身を委ねることだ。結果など気にかけていないし、先のことも何も見ていない。一般の資本主義者にとって、物(生産品と生産行為)は、ピューリタンにとってのように、彼自身がなるもの、なりたいと思っているものではない。
科学は、それ自身のなかでは、意識を物体に限定していて、人間を自己意識へ導かない(科学は、主体を客体とみなしてはじめて、つまり物とみなしてはじめて、主体を認識できるようになる)。
ヴェーバーにならって、資本主義の精神に対比させるかたちでプロテスタントの立場を考察していくと、人は、産業の飛躍的発展に好都合なもの以外何一つ想像できなくなってしまう。何しろこの立場は、一方で無為と奢侈を批判し、他方で企業の価値を肯定しているのだから。宇宙という無限の富を直接的に使用することは神に厳密に委ねられてしまっていて、人間はただ労働に差し向けられるばかりになった。人間は富を、時間を、食料を、あらゆる種類の資源を、生産設備の発展に捧げることにただひたすら差し向けられたのである。

※解説より
プロテスタンティズムは西欧近代の資本主義社会を生む精神的母体になったのだが、しかし二〇世紀の資本主義社会は、労働を基軸にすえながら、そして、「有用性」つまり「役に立つ」という発想に縛られながら、曖昧で卑俗で利己的な非生産的消費に終始するようになった。大胆さも勇気もないままに欲望を四方八方に中途半端に発露させて今日に至っている。
人間にとって大切な「内奥性」すなわち生の広がりと深さが人々のあいだで共有されず、各人が利己的で無機的な単体に、「物」に、還元されてしまったというのだ。
近代社会のなかで死滅した蕩尽はわずかに中世の遺物に感じられるだけだと彼は嘆く。ベルギーのブリユージュのように近代化から取り残された中世の死都に聳えるゴシックの大聖堂は巨大な蕩尽の痕跡なのだが、そのなかに入ると失われた「内奥性」が今なお何がしか体験できるとノスタルジックに語りかける。
我々もまた古都を訪れて中世の神社や仏閣、庭園や木像を眺めては、しみじみとした思いに浸る。これも余剰が巧みに蕩尽されて、宗派の教義など超えた生の雰囲気が、奥深い境内から、高木の木立から、大胆な襖絵から、静謐な池の水面から、今なお醸し出されているからなのだろう。現代とはまったく違う価値観、まったく異なる経済感覚が時代を支配していたのだ。しかしそれでも現代の我々は大切な何かを感受できる。内奥において中世の人々とどこかで交わることができる。蕩尽によって生まれたものは、「物」でありながら、蕩尽の気配を宿して、あるいは体現して、「物」以上の光輝を発することがある。それをバタイユは「栄光」といい「至高性」と名づけた。人間一人一人もエロティシズムという生の蕩尽によって生まれた存在であり、生きている限り何歳になっても生を無益に、無益だからこそ魅力的に、輝かせることができる。だが近代文明はことさらに人間を有益な単体に還元して、生産のサイクルに役立つ人材形成に努め、その人材を有益な歯車として組織へ吸収し、実生活まで支配したのである。リクレーション、リフレッシュ、まさによりよく働けるようにするための再創造であり再活性化なのだ。
このとき「有用性」(生産のサイクルに役立つこと)という価値が麻薬のように機能し人をこのサイクルへ誘い込んだのだが、これは、有用なものを近代文明が次々に生み出して、生き延びたいという人間の根源的な欲望を絶えずみごとに、どんどんみごとに、叶えていったことによる。こうして近代社会の生活は、便利になり生きやすくなり平均寿命も延ばしていった。しかしその裏で呪謝の念をどんどん風除させていった。「有用性」に毒された副作用として呪うということが蔓延しだしたのだ。この麻薬にやられた近代人は、個人の延命と発展を讃え、その反対の事態(死、喪失、消滅)を短絡に呪うようになっていった。


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