見出し画像

衰退する“アメリカとは何だったのか”考える その2文化

『アメリカのデモクラシー』より

アメリカに哲学がないのはなぜか?

アメリカ人は、仕事で儲けるのと同じ態度で学問を研究し、金になる特別の対象や、すぐに役立つことが分かる応用にしか学問を求めない。
アメリカでは、金持ちもその多くがはじめは貧しかった。
閑暇のある人も、若いときはほとんどみな多忙な人間であった。
したがって、研究心をもちうる年ごろにはそれに没頭する時間がなく、没頭する時間ができたころにはその気が失せている。
それゆえアメリカには、知的欲求の充足を求める性向を安楽と閑暇とともに代々受け継ぎ、知的業績を尊敬するような階級が存在しない。
したがって、そこには知的な営みに専心する意志も力も欠けている。
アメリカの貴族階級はどこにいるのかと問われるならば、金持ちの中に貴族がいないことは躊躇なく答えられる。
金持ちを結集する共通の絆は何もないのだから、アメリカの貴族階級は弁護士の席や判事の椅子にいる。
ザ・フェデラリスト - Wikipedia
文明世界で、合衆国ほど人が哲学に関心をもたぬ国はないと思う。
アメリカが、デカルトの教えを学ぶこと最も少なく、これに従うことは最も多い国の一つであるのは驚くにあたらない。
アメリカ人がデカルトの作品を全然読まないのは、社会状態が彼らを思弁的研究から遠ざけるからであり、その教えに従うのは、同じ社会状態がこれを採用する方向に自然に彼らの精神を向かわせるからである。
彼らは自分自身の目で確かめることしか頼りにしない習慣なので、関心のある対象をはっきり見ることを好み、だから哲学の方法を書物に求める必要がなく、自分自身中に発見したのである。
(たしかに後のアメリカに現われた唯一の哲学はプラグマティズムしかなかった)
プラグマティズム - Wikipedia
これと同じ方法がヨーロッパで確立され、普及したのは、境遇が平等になり、人々が画一化し、似た者同士になるにつれてのことであった。
平等は、人々にものを考えさせなくしてしまう傾向があり、デモクラシーは民主的な社会状態の促進する精神的自由の火を消してしまい、その結果、かつて階級や人間が押し付けていた拘束をすべて断ち切った人間精神が、今度は大多数のものの一般意志に進んで、自分を固く縛りつけることになるのではなかろうか。
平等の世紀に生きる人々の好奇心は多いが、暇は少ない。
彼らの生活は実用的で複雑であり、ものを考える時間がほとんどない。
彼らが一般観念を好むのは、それが個別の事例を検討する手間を省いてくれるからである。
そうした観念は、多くのものごとを一つの小冊子に取り込み、手早くざっと調べただけでいくつかの対象の間に共通の関係を認めたと思うと人々はそれ以上研究を進めず急いで全部を同じ定式にくくって、わずかな時間で大きな成果を挙げる。
境遇がより平等になり、人間一人一人が似通ったものとなり、誰もが力を弱めちっぽけになるにつれて、人は市民を思い浮かべず人民だけを考察することに慣れ、個を忘れ、種のことしか考えなくなる。

アメリカによい文学作品がないのはなぜか?

今日の文明諸国の人民の中で、合衆国ほど高度な学問が発展せず、偉大な芸術家、すぐれた詩人が輩出することの少ない国はあまりない。
アメリカでは、多数者が思想に恐るべき枠をはめている。
その限界の内側で作家は自由であるが、一歩その外へ出れば禍が降りかかる。
旧世界のもっとも誇り高い諸国では、同時代の人間の悪徳や愚行を忠実に描いた作品が出版された。
ラ・ブリュイエールは『人さまざま』の貴人についての章を書いたとき、ルイ十四世の宮殿に住んでいたし、モリエールは宮廷で上演した作品の中で、宮廷を批判したものである。
平等による多数者の専制は絶えざる自画自讃の中に生きており、ある種の真実がアメリカ人の耳に届くはずがない。
アメリカにいまだに大作家が出ていないとすれば、原因は、文学の天才は精神の自由なくして存在せず、アメリカには精神の自由がないからである。(もちろん『アメリカのデモクラシー』が出版された時点(1830年)に、トクヴィルは1850年代のアメリカンルネッサンスを知らない。例えば、フランクリンやジェファーソン以前のアメリカ建国神話の欺瞞を批判したホーソンの『緋文字』など、トクヴィルが読んだら如何に批評したのか興味深い)
彼らの起源はまったくピューリタン的であり、習慣は商売一辺倒、住んでいる土地そのものが学問、文学、芸術の研究から彼らの知的関心をそらせ、多くの要因が与って、アメリカ人の精神を純粋に物質的なことがらを考えさせるように異様なまで集中させた。
民主的な国民においては、人の心の中で「美」を愛する心よりも「効用」を好む気持ちを優先させる。
彼らは生活を美しく飾ることを目的とする芸術よりも、生活を楽にする芸術を好んで育てるであろう。
金持ちしか時計をもっていなかったとき、時計はほとんどすべて素晴らしいものであったが、誰でも時計をもっている今では、ありふれたものしかつくられなくなった。
このように、デモクラシーは人間精神を役に立つ芸術の方に向かわせる傾向があるだけではなく、職人に不完全なものを数多く即座につくらせ、消費者はそれに満足するように仕向けるのである。
ラファエロが今日のデッサン画家のように人間の身体の細かい仕組みについて深く研究したとは思えない。彼は自然を越えるつもりで、人間を人間以上の何かに描こうと欲し、美そのものをさらに美しくしようと試みたのである。
これに対して、ダヴィッドとその弟子たちはよい絵描きであると同時にすぐれた解剖学者であった。彼らは目の前のモデルを見事に再現はしたが、それを超えて何かを描くことは滅多になかった。
われわれの時代の画家たちはしばしば、彼らが終始目にしている私生活の細部を正確に再現することに才能を傾け、自然界に原型があり余るほどある小さな対象をあらゆる側面から写している。

他、詳細メモ

第二巻(上)10章、アメリカ人はなぜ理論より学問の実用にこだわるか

第二巻(上)15章、ギリシャ、ラテン文学の研究が民主社会において特に有用なのはなぜか(読書についてショーペンハウエルと)

第二巻(上)17章、民主的諸国における詩の若干の発想源について

他、フランス文学との比較

大きな政治的破局の経験もなければ、恋愛がいつでもまっすぐ簡単に結婚につながる国には劇の題材がまるでない。週日は毎日金儲けに精を出し、日曜には神に祈るという人々には芝居の神様に捧げるものがなにもない。

強制的な結婚や気まぐれの結婚ほど、不義の恋に走るものにとって、正当化に好都合なことはない。ヨーロッパのさまざまな文学作品を検討してみれば、この真理は容易に納得できる。

たしかにそうである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?