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『呪われた部分』マーシャルプラン

この書は冷戦体制の最中に書かれた。目前にキューバ危機が迫り、第三次大戦の可能性が現実味を帯びるなか、バタイユはマーシャル・プランに蕩尽による救いの可能性を見ていた。

生命に開かれた空間には飽和点がある。たしかに活動力に対して空間が開かれていても、その開かれ方は、生命形態の本性に応じて変わりうる。翼のおかげで鳥は、より広い空間を増加のために開かせてきた。同様に、人間はその技術のおかげで、エネルギーを消費し生産する生命体系の発展の面で躍進を続けることができた。新たな技術が作られるたびに、生産力の新たな増大が可能なった。だがこの成長の動きは、生命のすべての段階で、限界に衝突する。絶えずストップをかけられるのだ。そして再出発のために、生命の様態の変化を待たねばならないのである。
一般に認知しておくべきなのは、生命あるいは富は無限定に豊饒であることができず、生命あるいは富が成長をやめて消費に転じなければならない瞬間が絶えずやってくるということである。
死のない単細胞生物の強烈な繁殖に続いて、死の、そして有性生殖の奢侈〔贅沢〕が起きる。この奢侈は、風土病のように一定の場で莫大な浪費を維持する。ある種の動物が別の種の動物によって食べられるという事態はグローバルな増加へのブレーキになる。同様に人間も、生命のために使える空間を、そこに住む動物を犠牲にして支配を確立すると、あとは戦争、および多様な形式の無益な消費に向かうようになる。人類は、産業によってエネルギーを生産力の発展に活用して、増加の可能性を多様に開設する。と同時に、純粋な消失として蕩尽を行う能力を際限なく持っている。
二つの戦争で想像を絶する富が消え失せていかねばならなかったが、このことは、次のように語るともっとはっきりしてくるかもしれない。すなわち問いかけが「古典派経済でのように利潤の追求に制限されている経済問題は個別の問題つまり枠が設定されている問題なのであり、逆に全般的な問題においては、余剰エネルギーを休みなく破壊し (蕩尽し) ていかねばならない、生きた集合が、いつも再登場するということである。
マーシャル・プランに話を戻すと、今や事態を容易に明示することができる。この計画は「古典派」タイプの個別の投資に対立しているのだが、集団の需要と供給の連結決算によってだけ、これに対立しているわけではない。この計画が全般的な投資であるのは、ある一点で、生産力の増大を放棄しているからなのだ。つまりこの計画は、投資であるのだが、その資金が消失される投資になっている。まさにこの点でマーシャル・プランは全般的な問題の解決へ向かっているのだ。
マーシャル・プランがこの活用の可能性を差し向ける場は、戦争の破壊によって、この可能性に領野が開かれた地域なのである。言い換えれば、この計画の支援は、断罪された富を送り込む支援なのだ。(「断罪された富」というのはアメリカ経済の余剰をアメリカの経済発展のために使うことが否定されているという意味。他方で、アメリカの政治的利益がこの援助計画に見込まれている可能性についてバタイユは次節にあるようにこれを考慮に入れて慎重に推移を見守ろうとしている)
こうした反響の動きの重要性はどんなに強調してもしすぎることはないだろう。この動きは経済の根源的な変化へ向かう。この変化の結果だけで十分であるかどうかは分からないが、両陣営の間の矛盾に満ちたやりとりは、次のことを立証している。すなわち、世界の対立は必ずしも戦争によって解決されるとは限らなくなる、ということを。
もしも戦争の脅威のせいでアメリカ合衆国が余剰の重要な部分を軍事産業に差し向けるようになるならば、これ以上平和のための進展を語ることに意味はなくなるだろう。そうなるとまちがいなく戦争が起きるだろうからだ。
戦争の脅威のせいでアメリカ合衆国が余剰の相当の部分を平然と見返りを求めずに世界的な生活水準の向上に差し向けるのならば、そのかぎり、 唯一そのかぎり、経済の動きは、生みだされたエネルギーの余剰に戦争とは別の捌け口を与えるようになり、人類は平和裡に人類の問題の全般的な解決へ向かうだろう。

経済とは、諸物に還元できない人間そのもののことであり、バタイユはいっこうに目覚める気配のない同時代人に対して、各人のなかに流れ込んでいる余剰エネルギーを「自己意識」として強調して語ることにより呪いを解き、三度目の大戦争を回避するため『蕩尽』に顕著な道徳的意義を発している。

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