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衰退する“アメリカとは何だったのか”考える

トクヴィルが面白いのである。どの角度からでも入り口はあるが、衰退するアメリカの資本主義は何だったのか? 『プロ倫』×『アメリカのデモクラシー』で、起源から考察することを始めたい。

プロテスタンティズムの倫理

今日合衆国の社会理論の基礎を成す重要な観念が形成されたのは、北部のイギリス植民地、ニューイングランドの名でより広く知られている諸州においてであった。
ニューイングランド沿岸に定住の地を求めてやってきた移住者は、全員が母国で余裕ある階級に属していた。
この人々の間には、割合からいえば今日のヨーロッパのどの国民と比べてもはるかに多くの知識が普及していた。
おそらく一人の例外もなく、誰もが相当に進んだ教育を受けており、なかには才能を学問によってヨーロッパに知られた人もあった。
彼らを他のすべての植民者から区別したものは、植民の企図そのものであり、彼らは困窮が国を捨てさせたのではなく、暮らしむきをよくし、富を増やすため、新世界に渡ったのではなかった。
彼らは純粋に精神の要請に従うため、社会的地位と確実な生活手段とを捨て、懐かしい祖国から自らを断ち切り、新しい神の国〔ニューイングランド〕を建設すべく、妻子とともに荒野にやってきたのである。
彼らは亡命の避けがたい苦難に身をさらしても、一つの「理念」の勝利を欲したのである。
いみじくも自ら巡礼者(ピルグリム)と称するこの人々は、信奉する原理の厳しさにより清教徒の名を得たイングランドの教派に属していたが、母国の政府に追害され、信奉する原理の厳格な実践を周囲の社会習慣に妨げられた。
清教徒は独自の生き方が許され、自由に神を礼拝することのできる未開の地を求めたのである。

1620年以来、移住は止むことがなかった。
イギリスでは、ピューリタニズムの温床は中産階級にあったが、チャールズ一世の治世を通じて英国を分裂させた宗教的政治的熱狂は年ごとに新たな分離派の群をアメリカ沿岸に運び、ニューイングランドの人口は急激に増加した。
母国では、身分制度が人をほしいままに差別しているうちに、植民地では、どの部分も同質的な新しい社会が次第に姿を現し、古き封建社会の中から、古典古代も夢見なかった大規模なデモクラシーが武装して脱出したのである。

資本主義の精神

人々は、宗教的意見のため、友人、家族、祖国を捨て、アメリカに渡った。
それほど高価な代償を支払った以上、彼らはそうして得た精神的財産の追求にひたすら打ち込んだと思うが、ところが彼らは、ほとんど同じ熱意をもって、物質的富と精神的喜びを追い求め、あの世に天国を追い、この世に繁栄と自由を求めている。
(ここからマックス・ウェーバー)
昔工場でバイトしていたころ、勤務時間中はどうすれば楽に、少しでも働かず過ごせるかと考えていたが、ぼくがピューリタンなら、そうした態度を否定するだろう。
ピュウリアニズムのエートスは、中産階級の中から産業資本家がつぎつぎ成長してくる資本主義初期に、人々の成長を内面から推し進めた。
宗教改革を経て、カトリックの修道院とちがい、世俗のなかにおける聖潔な生活、神から与えられた〈使命〉を営みとし、他のあらゆる欲望を抑え、エネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む行動様式=資本主義の精神を身につけたピューリタンは、救いの自己確信を得るため、絶えまない職業労働に励んだ。
カルヴァンの予定説により、宗教改革時代の人々にとって人生の決定的なことがらだった「永遠の至福」という問題について、人々は自ら運命に向かい「孤独の道」を辿らねばならず、かつてない内面的孤独の感情を抱いた。
最後の審判を原理に据えるカルヴァニストの胸の内には、「私はいったい選ばれているのか?」という疑問が生じ、ガルヴァニストにとって救われていることを知りうる意味で、「救いの確信」が重要となり、彼らは「選ばれた者」に属しているか否かを知ることのできる確かな標識を必要とした。
そうした自己確信を獲得するための最も優れた方法として、彼らは絶えまない職業労働に励み、救われているとの確信を得たのである。
それはカトリックの修道院と異なる「禁欲」の精神であり、世俗そのもののなかにおける聖潔な生活、神から与えられた指名を営みとし、他のあらゆる欲望を抑え、エネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む行動様式である。
彼らの生涯の中心は魂の救済であり、それ以外はなかった。
彼らは金儲けをしようとしたのではなく、神の栄光と隣人への愛のため、神から与えられた〈天職〉として、自らの世俗的職業に専念した。
しかも、ピュウリタンたちは富の獲得が目的ではないから、無駄な消費をしない。
それで金を貯め、それを隣人愛にかなう事柄に使おうとした。(そんな人物はアメリカ文学の中に出てくる。例えばフォークナー)
現世において果たすべく神から与えられた使命=天職=ベルーフというエートスを身につけた労働者が図らずも押しす進めたアメリカの資本主義は、フォードを生み、マクドナルドを生み、シリコンバレーを生んだ。
ところが、単なる貨幣の操作から健全な資本主義の精神は生まれず、今やシャンパンタワーでウェイウェイすることが自己目的化している。
『プロ倫』最終章でウェーバーは指摘する。
「ピューリタンは天職人たらんと欲したが、われわれは天職人たらざるをえない。」
合理的な産業経営は歴史にまったく新しい資本主義の機構をどんどん作り上げ、それができあがってしまうと、ピューリタンは儲けなければ経営を続けていくことができないようになってくる。
勝利をとげた資本主義が機械の基礎の上に立って以来、かつての〈天職〉というエートスは宗教的信仰の亡霊として生活のなかを徘徊し、経済的成長という目標だけが競争の感情に結びつき、今やスポーツの性格をおびて生活スタイルを決定し、精神のない生活が人々をニヒリズムに陥らせている。
※1850年代~鉄道というビッグビジネス、整ったロジスティクスによる新しい卸商売の誕生、機械化による大量生産・大量消費、企業の組織化による非人格化
(ウェーバーおわり)
トクヴィルは、アメリカ社会を考察しながらフランス社会の核心にせまっていく。
私はアメリカで、金に不自由なく気質もきつい労働にまるで向いていないのに、職に就くことを強いられる若者に出くわした。
彼らの性質と財産は働かないでいることを許すが、世論は断固としてこれを許さなかったのである。
逆に、貴族階級が激流に抗してなお闘っているヨーロッパ諸国においては、しばしば働く必要と欲求に負われているのに、同等の仲間の尊敬を失わぬために無為に日を送り、労働より倦怠と貧困に適応している人々に実際出会ったものである。
宗教は、将来を見すえて行動する一般的な習慣を与える点で、来世における至福に劣らず、現生の幸福に役立ち、これこそ、それが有する最大の政治的側面である。
他、分業と機械化による〈労働する動物〉の勝利について…
人生の二十年をピンの頭の製造に費やした人間から一体何を期待すべきか。
人間の知性はかつてしばしば世を震撼させたものだが、今後、このような労働者がピンの頭の最善の製造法の探究以外の何かのために頭を使うことがあり得るだろうか。
労働の分業の原理がより具体的に応用されるにつれて、労働者はより従属的に視野を狭め、技術は進歩し、職人は退歩し、彼はもはや自分自身のものではなく、彼が選んだ職場のものである。

その他、デモクラシーと経済の関係性、第二巻(下)18〜21章

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