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可否爺さん 一

 近所に開かずの店が有る。或る日甥っ子と散歩をしていて店主に会った。店前で花を可愛がって居る。こんにちはと挨拶を返してくれた。無垢な可愛らしさに心を動かされたのか知らん、ここぞとばかり話しかけた。

 「店はもう終えられているのですか?」
 「いいえ平日の昼だけ開けております」

 店主は知らぬように又花を可愛がりはじめた。車ぎりぎり二台ほどの駐車スペイスの両側に瀬戸物の鉢に植えたキョウチクトウやゼラニウムやザクロが並んで有る。軒先に『可否』という麻の暖簾が掲げて有る。この場に越し一年になるが始めて店主の顔を見た。七十はとうに過ぎて居る。几帳面に刻まれた皺が顔に老いを形造るが艶肌は良い。日課の労働が良き方向に転換し精神が皮膚に働きかけているように見える。骨格も豊かで姿勢も良く歳のわりに若々しい。鉢に水をやる所作から習慣の規律が伺える。桶の水を柄杓で掬いくるりと回転する動きはスポウツみたいに快い。風姿は真言陀羅尼宗のような諦念を現し物腰は店の在り方を予感させる。薄い眼鏡から神経質そうな目がこちらを伺うて居る。

 「あの何か?」
 「いえ…今度お店に伺わせてもらいます」
 「はいどうぞ」

 明くる日頭を下げて暖簾をくぐった。引き戸を開けると左手にカウンタアが有り店主が居る。いらっしゃい。スツウルに腰掛け十坪ほどの四角い店を見廻す。奥のスペイスに大きな洋卓と椅子がゆったり配置され卓中央の花瓶には百合の花が贅沢に飾られて有る。たちまち奥の壁に目を奪われる。経時と共に錆び暗がりの中で弱弱しい光彩を漂わすゴオルドのシイムレス壁右上の神棚に塩と水と米が供えられて有る。神棚の左下には百合の絵画が有りさらに一段下には一月のカレンダアが有る。左端に目を飛ばすとストウブが有りストウブの上にレトロな赤いヤカンが有り奥の三角棚には古器物類が並べられて有る。この神棚からストウブまで左斜め四十五度に配置された物たちは幾何学的な意図を保ち美を表象して在るかのように見える。

 「何になさいますか」
 「珈琲をください」

 目の高さにサイフォンが有りフラスコに湯が沸いている。店主が豆を挽きロウトに入れる。カウンタアの反対に目を移すと入口右手に使い込んだ焙煎機が有り今座っている席の背に本棚が有る。並べられた本の背表紙に目を遣る。哲学や美学や珈琲の本が有る。「整頓」それがこの店から真っ先に受ける印象だ。店主は快い秩序を造っている。目をカウンタアに戻すとフラスコの湯がロウトに抽入されはじめている。接触した湯と粉を竹箆で攪拌させ火を外してもう一度攪拌しロウトからフラスコへ液体を抽出する。様子をじっと眺めていると焦点が暈け躰ごと液体の中へ吸い込まれていくような感覚をふと、憶えある記憶がイメイジとなって現在に蘇って来る。日曜朝の日課は父親に連れられ喫茶店にモウニングを食べに行く事だった。モウニングを食べ終えると父親は新聞を読みながら煙草を吸い珈琲をもう一杯呑んだ。黙ってオレンジジウスを啜っているとトイレに立った。その間に珈琲を舐めた。苦い大人の味がした。舌が痺れた。失われていた記憶がサイフォンのように逆流して来た。店主はロウトを外してフラスコからカップに珈琲を注いだ。一口呑むと禅寺のような味がした。そう形容されても困るかもしれないがそのような印象をもつ珈琲で在る。

 「とても美味しいです」
 「有り難う」

 

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