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可否爺さん

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可否爺さん 十一

 明治末期、桜島特産の蜜柑農家に可否爺さんは生まれた。「桜島から嫁を貰えば食いはぐれない」と云われる程豊かな島で幼い頃から畑を耕し堆肥をやり摘果から出荷まで何でも手伝った。桜島の自然は肉体と精神を鍛えた。庭の向こうに聳える北岳に崇高な恐怖を覚え眼下に映る白浜に生命の躍動を感じた。毎日山や海を駆けずり廻り親父に剣術と柔術を叩き込まれ小柄だが筋肉質で何処かぶっきらぼうな少年に育った。よく喧嘩をし負けて泣くと親父に叱られた。「男なら親が死んでも泣くな。男が泣くのは天皇陛下が御隠れに

可否爺さん 六

 喜ばし 縁が運ばす 酒圷に 山里の春 花を尋ねん  大学の短歌部に所属して居た頃『古今和歌集』等等詠み何も感じる事なく過ごして居た訳だが然し生活の中での花は待ち遠しく自然と歌の一つでも詠んでみたい気持ちになった。いよいよ季節が来て便りが有り私は沙織さんの自宅が有る里山へ向かった。国道から一本入り曲がりくねった山道を暫く進むと忽ち草木に覆われ茂る緑のトンネルを抜けると視界がひらけ目の前に奇跡的な風景が現れた。町と町との間の真空に有る集落は近代から逃れ俗から忘れられた場で在っ

可否爺さん 五

 已上の様な事を談論風発と話し終え可否爺さんは一息吐いた。疲労した顔の奥に精神の強さを感じさせる。凝っと其の顔を見て居ると一体幾つなのだろう? 次次と疑問が沸いた。どれ程学問が有るのか? 一人で住んで居るのか? 何故珈琲屋をして居るのだろう…  「沙織さん…矢張り茶の湯と云うのも、禅に通ずるのでしょう」  「ええ…茶道は日常茶飯事に美を見出し、其れを尊ぶ事に拠って社会秩序を教えられる事と云います」  「店主。珈琲道と云うのもあるのですか?」  「其れは、あると思いたいね…」

可否爺さん 四

 此の様な徒口を呟き青年は歩いて居た。勿論彼は学問と成功が交わる事のない平行線である事を未だ知らぬ若いロマン主義者で有る。然し尠くとも彼の理想は欺瞞でなく純粋な情念から口に出る言葉で有った。彼はどこか僥倖な期待を胸の片隅に膨らませ青年期特有の夢想的な日々を過ごして居た。彼は店の扉を開けて驚いた。大きな音を立てて焙煎機が稼働して居たので有る。鉄の前蓋が開けられ大量の豆が流れ落ち煙が立ってばちばち爆ぜた。入り口で立ち止まり芳香を躰に吸い込むとアクチヴな空気が皮膚に侵入した。  

可否爺さん 一

 近所に開かずの店が有る。或る日甥っ子と散歩をしていて店主に会った。店前で花を可愛がって居る。こんにちはと挨拶を返してくれた。無垢な可愛らしさに心を動かされたのか知らん、ここぞとばかり話しかけた。  「店はもう終えられているのですか?」  「いいえ平日の昼だけ開けております」  店主は知らぬように又花を可愛がりはじめた。車ぎりぎり二台ほどの駐車スペイスの両側に瀬戸物の鉢に植えたキョウチクトウやゼラニウムやザクロが並んで有る。軒先に『可否』という麻の暖簾が掲げて有る。この場

可否爺さん 三

 「人間はどんなことにも慣れられる存在」と云うのはフランクルが『夜と霧』の中でも引用したドストエフスキィの言葉だが此れには思い出がある。繁忙期に備え人を募集する引越し屋の仕事は春休みの日課であった。三年目にもなると二月初めに向うから電話が掛かって来る。「今年も手伝えないか?」勿論喜んで引き受ける。時給が千二百円もあるので三四月をフルタイムで出勤するとふた月で七拾万稼ぐ事が出来る。然し六時から九時迄十五時間労働の為躰は痛み本を読む事もままならない。初めての現場は大学教授か何かの

可否爺さん 二

 がらがらと入口が開き人が這入って来る。客が有るのか。おや、という表情を此方に一寸向け二つ離れたカウンタア席に腰を下ろす。着物の女性で有る。明けましておめでとう御座います。沙織さんおめでとう。珈琲で? お願いしますね。短かな答弁が交わされる。独特に染めた紺色のお召を新年の晴れ着としてではなく日常の街着として拵えて居る様な着こなしで有る。孔雀の羽根のような柄を織り出した茶色の帯が栄えて居る。店主はアルコオルランプに火を点ける。照らされたフラスコに映る店内の風景と自分の顔を他人の