多様性を「認める」話

そこらへんの高校二年生の思想に少しお付き合い下さい。

現代においてどこでも目にする「性的多様性」という文字。世間ではこれを認めていこう!という動きが活発になり始めており、これは非常に喜ばしいことである。

最近よく、心の性別が生物学上のものとは異なるという人に対し、そうなんだね、それでいいと思うよ、大丈夫だよ、などとその考えを認めてあげようという流れがある。これはその人の心の理解に対して重要かもしれない。しかしそれでは「あの人はそう思ってるから違うことした方がいいよね」といった、過剰な「配慮」がされることが多い。しかし考えてもらいたい、例えばこれまで皆さんは「自分の生物学的な性別は男性です。私は女性のことを恋愛対象とします。」などとわざわざ言ってきたであろうか。それはおそらく多くの人が通ってきていないであろう。しかし、昨今では「カミングアウト」などと言い、自分の自認性別はこうで、恋愛対象はこうなんです、と表明することと、それを認めることが性的多様性への道だという風潮がある。しかし、これまでそんなことはしてきたか?それは否である。別に誰が好きでもいいし、それが「普通」なんだという認識が必要ではないだろうか。

さてここで、この筆をとる人間の話をしておこうと思うが、生物学的性別は男性である。ここで読者の方には「そうやって前置きをするなら心は女性なんだ!」と早合点する方もいると思うが、そうではない。私は「コミュニケーション現代文」であり、それが心である。何を言うかと思うかもしれないが、「私は私」なのである。私の恋愛対象は女性である。なら心は男性だね!とする人が多いが、別に男女どちらに決めつけなくてもいいのではないだろうか。

私は○○という性別で、□□を恋愛対象とします。などと言わないで、「私は私」そこに囚われない、という思考が広がる世の中が来ることを願っている。


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