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綺麗の先の、美しさを目指して

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「人は、なぜ花を美しいと感じると思う?」

駅までの道を歩いていると、友人に質問された。この手の哲学的考察は好きだけど得意じゃない。ぼくは首をかしげ、わかんないな、という目線を彼におくった。

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この問いに多くの人が様々な答え方をしている。学術的に言えば、花が受粉するために虫や鳥に花粉を運んでもらうから、という解答が一般的だろう。正解がない問への答えは、その人の人生観に繋がることが多い。美輪明宏さんは著書、『愛の話 幸福の話』の中でこう語っている。

「花は見る人を癒すが、自分は何も求めない。だから美しいのです」 

人生相談や役を演じる心境を「無償の愛」という言葉を引用して語る、美輪さんらしい答えだと思う。

詩人の八木重吉さんの作品「花」の中では、こう表現されていた。

花はなぜうつくしいか
ひとすじの気持ちで咲いているからだ

ひとすじの気持ちをどう解釈するかで、この詩の印象も変わるだろう。けれど、花屋に飾られた花も、人知れず咲く花にも、同じひとすじの気持ちがあるならば。癒しだけでなく、生きる勇気も花からもらっているはずだ。

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「人は、なぜ花を美しいと感じると思う?」
首をかしげたぼくに彼が言った。

美しいという言葉を知ってるから、ぼくらは花を美しいと感じるんだよ。

ぼくは、思わず唸った。当たり前すぎて、考えつかなかった答え。でも、今まで聞いた中で一番腑に落ちる言葉だった。

「それ、誰のことば?」
「…… 忘れた。たしか作家の人だったはず」

肩すかしな友だちの答え。スマホを取り出し検索しようとして、やめた。誰が言った言葉なのか、知らない方がいい気がしたから。

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生まれたての赤ちゃんの目には、明るい暗いという情報しか届かない。生後三ヵ月で色が見え始め、六ヶ月で「視力」を持つという。部屋に飾られた花を見て、赤ちゃんは「きいろいもの」としか思えない(というか識別できない)。親たちの「お花きれいね」という会話を聞いて覚えていく。目の前のものは、花と言うらしい。そしてそれは「きれい」と言うらしい、と。

さらに言えば、赤ちゃんに「美しい」は理解できないはずだ。「きれい」は、清潔や整っている様子を表す、外面的な表現。「きれい」の反意語は「きたない」。その境は明確だけど、「美しい」は曖昧だ。

「美しい」という感情は、見る人にゆだねられる。満開の桜が一番美しいという人もいれば、散り際の桜にまさるものはないという人もいる。美しいと呟いて笑顔になるときもあれば、涙するときもある。寝るまえに視界に入ったテーブルの花。なにも思わなかったその花を翌朝見て、美しさに感動することだってある。

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手をきれいする、とは言うけれど。手を美しくする、とは言わない。「きれい」は作ることができるが、「美しい」は作れない。正確に言えば、狙って「美しい」は作れないのかもしれない。

海や川、滝や湖。自然は「美しい」であふれている。自然が美しいのは、狙ってないからだ。海岸に打ち寄せる波は、「オレ美しいでしょ?」なんて主張しない。砂浜を湿らせて、「じゃ、また来ます」と言わんばかりにスッと引いていく。波が引いた海岸の波跡にも、自然体の美しさがある。

でも、デザイナーは「美しい」を狙ってつくる。よくよく考えれば、とても傲慢な行為だと思う。

だからかもしれない。デザインのインスピレーションを自然界に求めるデザイナーは多い。海や山の風景。そこに生きる生物たち。果ては、細胞の構造や雲の渦など、自然が作り出したフラクタル図形まで。「美しい」を狙ってつくるのは簡単なことではない。

「美は言葉を失わせ、人を沈黙させる」と言ったのは、誰だったろうか。頭の片隅に残った言葉の断片を思い出し、スマホを手に取り、やめる。誰が言った言葉なのか、知らない方がいいこともあるんだ。




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