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あとがき #27(そのゴミは誰のゴミ)

 過去を振り返る作業はとても難しい。昨日より今日、今日より明日の考えが進化していると思い込み、どうしても今の想いを吐露したくなって、一足飛びに記事を書き上げてしまいたくなる。
この先を生きていく上で何か大事な「捉え方」の発見が要所要所でなされてきたはずで、落とし物の回収はまだ終わっていないのに「今」の会話が気になって進まない。そんな時は自分の頭を静かに落ち着かせ、山積みの缶のただ一点を見るともなく見つめ、ゆっくりと記憶を呼び覚ました。

 思い返したくない記憶はひとつも無い。楽しくて嬉しい記憶しか無いということではもちろん無い。泣けてくるほど悔しい記憶や虚しさの記憶の方が多かったのだから。
それでも、何回でもじっくりと思い返すことができたのは、その全てに自分にとって失くしたくはない「この世界の捉え方」がきちんと埋め込まれていたからだと思う。

 私は小学生の頃、美術の成績が良い子に強い憧れを抱いていた。何故あんなふうに描けるのか、何故そんなものが作れるのか。綺麗だ。かっこいい。何か凄い。当時の心境を語るとすれば、「私はこんなにも意識を集中させて頑張っているのに」といった感じで、毎学期末には軽く落胆もしていた。私はその小学生の頃に先天的な才能のあるなしを何となく知ったのだと思う。表したい美がはっきりと頭の中で浮かんでいながらそれを叶える術は持ち合わせていないということを。

 2022年10月から2023年10月にかけての一年間を思い起こして(そのゴミは誰のゴミ)で書きたかったこと。それは「逃げ隠れせず観る」という行いが最大に引き出されることとなったある表現から受けた影響と変化だったのだと思う。

「何も無かったことになんかできない」とは、始まりこそ他のもっと共感できる人に知って欲しいという想いであったはずが、数回の書く作業を終えてそれは自分に対しての「傍観者のままでいいのか」といった戒めにも似た言葉だったのだと気付いた。芸術が何であるかを語るのではなく、私が影響=変革の機会を与えられるものは、それは芸術なのではないかということの確認。それをまず残さなければならなかった。

 独りよがりな日記のような文章に目を通して来てくださった皆さま、本当に有難うございます。独りよがりであるからこそ少しの創造性が生まれるかといった期待はやはり予想通りに叶わず、しかしきっと誰もが持つ後天的な才能に期待して受け止める力の芽を絶やさぬようこれからも綴って行きたいと思います。

 過去の振り返りとしての(そのゴミは誰のゴミ)に区切りがつきました。ある男は今も続けています。次回からは現在進行形としての(そのゴミは誰のゴミ)を私も続けていこうと思います。


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