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愛に包まれて~わが家の継親

義母ムス最終回まで見た――――

家族がまったり過ごす日曜日,心地よく最終回まで見切った!!

マンガとは違うオリジナルな展開だろうか~家族で楽しんでみたのがよかった!!

マンガの表紙をみて,末っ子が,「みゆきちゃんとー,これ誰?」「あきこさん」なんていうおしゃべりをする

あんまりのめり込んでいないようで,5歳娘が「パパ死んじゃったんだよねー」とストーリーの核心について理解している

死,について,考えるということ・・・あんまりないけど,幼いながらに感じるものがあるようだ・・・幸いにも身近な経験としてはないのだけど

それは,12歳の兄にとってもそうで

最初の保育園の時に,若いお兄さん先生(30代)が非常勤的に夕方保育のサポートに入っていて,縁あってお話もしたことがあったけど,最近見ないなーと思っていた矢先に,あれよあれよとたった数か月で亡くなってしまったことがあった(ご病気で)

そういう,お世話になった方を亡くすということを2歳のときにあったけど,さすがに記憶にはない・・・そのあと転園したし

小学校2年生のときに,私の祖父母の25回忌・13回忌の法事に参加して,息子にとっては曽祖父母を遺影の写真を初めて見て,お坊さんにお経を読んでもらう時間諸々,意外に真剣に静かに出席しながら,感じるところがあったような表情 さらに4年後の17回忌にも,下2人の暴れぶりに我関せず,真剣にお経を本を読みながらみんなで声を出すときも前のめりに参加する具合

家族で文化を分かち合うことで,子どもながらに感じるものを教えてもらう次第である

すっかり,義母ムスを一通り,味わい,義母への想いというものが湧き出すようなものもあったが,もっぱら話題は,わが家にいる継親子に関するものが多い

義母への期待めいたものを表現してしまったけども,さらに前進し,そんな期待自体,欲張るまい,という境地に達する・・・元々,強く理想としてこだわっているものでもないし,率直な希望としては,息子はパパに会いたいを募らせていることについては真摯に受け止め,その想いを叶えてあげたいという親としての気持ちがあるとはいえ,私自身が何としてもたくさん会って欲しいとまでのこだわりとは違うような気がすることも自覚する(たくさん会っていいよ,というかんじ)・・・というのは,大人の事情についても冷静に理解できるし(しかし,息子の希望は息子の希望・・・無視してはなるまい),日本が抱える課題もあるし,文化的な未熟を個人に責めるものでもないし,マイペースにパパらしく愛してくれれれば十分よ,という想いもあるのだった

そういう意味で,息子の希望に少しでも近づく,というゴール設定であっても,達成率にこだわるものでもなかったりする

こんなにこんなにパパを慕っている,ということを伝えること自体に意味を感じているので,裁判所の手続の帰趨にもこだわりがない(どうオチつけるか,柔軟に構えている)

そこまで割り切れるのも,やっぱり,私は(息子も)幸せに満たされている,ということをよくよく実感するゆえである

何せ,愛に包まれていることがよくわかる

義母ムスは,義母の愛(娘も義母の幸せを願っていて愛がある)の形が表現されていく作品であるが,継親の愛をいつも身近に知っている

どうしたって親に成り代わるものではないけども,もうかれこれそれなりの時間を過ごす中で,友人のような大切に思う存在にはなっていて(何か不幸があったときの喪失感は否定できない),でも,どうしたって,息子が実父を慕う気持ちに敵うことがないこともよく知っているから,最初から闘わない

ちょうど1年前が,とにかく忙しくなり出していて,夜外出することも多かったとき,息子は運動会に向けてちょっとしたピンチに直面していた

母として,その悩みを受け止めて上げられる時間もなかったときに,詳細に状況を聞き出し,危機感を覚えて対策の必要を指摘してくれたのは継親である

ただし,継親は対外的にはとても弱い存在・・・自らも「知らないおじさん」と呼ぶにしかり,表立って活動することはできない

それゆえに,SOSをキャッチして,改めて聴取,学校とケンカにならないように配慮を尽くして連絡帳にて事情をおうかがい,それでも,展開が不安でいっぱいだから,息子もパパにSOS・・・あの時は,パパも親身に寄り添ってくれて,それだけで,救われる思いになったあと,何とか大事にならない具合に解決して,前向きに運動会当日を迎えた,という思い出もある

両親と継親とが絶妙な役割分担で連携(意思疎通はないけども)しながら,息子にとってより良いようになるようにしていくこと,それって,愛そのものではないか,と

愛に包まれて育つ息子である

日本一好きなように生きている母に振り回されながらも,父に愛され,そして,厳しくも生きる力を鍛えられることができるのも継親がいてこそ

きっと,背中には魔のマークの道着なんじゃないかしら

そんなとき,援護射撃で応戦してくれるのも継親である

念のため、本件申立ての動機をお伝えしておく。まず、シンプルな何よりの動機は、未成年者が父と会うことをとても喜んでいることである。申立人にもそれなりの葛藤はあり、面会交流など子の監護の件についての意見も揺れるところもあった。それでも、相手方は定期的に未成年者と会う機会をもってくれており、以前の御庁養育費の調停の際の裁判官も申立人に対して面会を勧めてくれていた。そのような過程で実際に面会を実施し続けてきたところ、未成年者は父と会うことをいつも楽しみにしており、会った後も余韻に浸るかのように機嫌がよいことが多かった。未成年者はもっと会いたいと述べるのである。しかし、申立て当時の状況としては、面会が月1回の頻度で行われないようになっていき、また、中止や実施の連絡も返信がないなど必要な連絡もなくなり、心理的な負担も大きいものになっていった。そのような中、十分な面会の機会と必要な面会の実施のために本件の利用を行うこととした。

父と会うことをいつも楽しみにしており、会った後も余韻に浸るかのように機嫌がよい

本当に,そばでずっと見守ってくれていたのだということがしみじみと伝わってくる

勉強方法や生活面のこと,家事について,遠慮のない躾(それがお互い心地よく家族として暮らせるように)の中で成長が見られれば褒め,育てられ,愚母により大好きな父との関係を断絶させられる危機に直面しながらも,乗り越えてこれたのも,継親のサポートあってこそに思う

十分ではないか

奇跡のような満ち足りた幸せに恵まれている

美味しいごはんが食べられて,好きな部活ができて幸せであると息子も言っている

綱渡りのような貧乏スレスレ(今も明日が見えない???)な人生を,ギャンブル精神で生き抜きながら,明日が見えずとも,明るく過ごせる毎日は喜びである

正直揺らぐことも多々あれど,やや先取りしすぎた生き方は,時代が追いかけてきてくれているような自信もある

きっと動じることなく堂々とあるだけでよく,望むまい

息子にとって,パパに会いたいと同居監護する母にブレずに言えること,それ自体がすでに一定のゴールに到達していると思う

その上で,その希望を応援する母がいて,サポートする大人も他にいること,それだけで,もう充分に幸せなことではないか!!

そりゃ,希望どおりたくさん会えれば一番だけども,そこまで理不尽な目に遭っているわけではなく,マイペースな父(母もマイペース)なりに愛情は存分に注がれていることは疑うこともない

義母ムスっぽい,BGMが脳裏に流れているような気がしつつ~♪

まだ心の離婚が不完全だったのか,繰り返しのループの中にいるように思えた不安が誠に勝手ながら解消して,完結を迎えそうな気分になるのも愛のおかげか

ただ,ドラマとは違って,人生は続くのよ

もう闘わん

誰かのセリフみたいな気持ちにずいぶん前からなっている



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