連れ去り規制、その先は?
以前から紹介もしているけど、共同親権制のある未来を描くために、とても参考になる書籍がある
現行法上での最善の利益の実現に貢献するための趣旨ではあるが、共同親権制へ移行したあとにこそ、課題として指摘される実践面をフォローするものだと思う
共同親権制に法改正することの宣言的な意味合いも意義深いが、それ以上に担い手こそ重大な役割を担う
2011年の民法766条改正という妥協策は、多少の前進をもたらしたが、他方で、課題も残したままであった
だが、その妥協に応じたというのも日本の特性を活かすための賢明な選択だったように思うし、そのように評価した上で、さらに突き進むことこそ大切だ
批判だけならこんなに簡単なことはない
そういう作業に特化した”同志”も見られる(慎重派と呼ばれるようだけど、共同親権制議論への関心が高くありがたい層である。どんどん発信してくれればいい。ハーグが批准したとき、そんな話題については全く知らなかったし、問題意識もなく、まして、慎重の会などがあったことも知らなかった。そんな時代がとても懐かしい)。
辛辣かもしれないが、私も、停滞した議論から脱出したく、投げかけたい
連れ去り規制をしたあとにどうするのか?
子の連れ去りの悲劇は、言うまでもなく、日本が珍しく無規制であることは世界からも批判をされている
だから、刑法の運用を改めたり、別途連れ去り禁止法の制定の声が上がったりもする
求められる連れ去り規制って何なのだろうか?
連れ去りさえなければいいのか?と問いたい
深刻な暴力がなかったのに別居を強行するのは、虚偽DVであり、DV自体厳格に審査すべきとも語られる
とはいえ、だ。
たしかに、物理的暴力はない。
しかし、別居を強行するまでの思い詰める事情自体は存在するかもしれない。何を思い詰めているかって、不倫をしてしまったとか、借金をしているとか、夫婦として暮らす上での障壁になることを抱えていることだって、そりゃある。後ろめたいから、言い出せない。正攻法では、離婚・親権者の指定の争点で不利になるかもしれない。そこまで追い詰められたら・・・。
そういうケースもある。
悪質な連れ去りには規制が必要なのは自然な論理ではあるが、では、抑止したところでどうなるのだろうか。
連れ去られる前であっても連れ去らないという、まるで連れ去れば以後の親子断絶もセットにする思考を同じくして、その選択肢を拒否する意見も見られるが、お互いに連れ去ることができない硬直状態にある家庭の風景をぜひ想像して欲しい。
不貞や借金をしたことを責める、無視するといった人格否定も含む重い空気の中に夫婦だからと拘束され、そこにさらされる子どもたちの福祉はどこにあるのだろう
まさにDVの温床そのものになりかねない
有責配偶者からの離婚請求を否定する有責主義は、夫婦の危機に直面したとしても何も救わない
最近、立て続けに、元依頼者からの報告があった
離婚に応じたくないが、配偶者に離婚請求をされている被告となったケースで、いずれも、配偶者の有責性を主張していた
それでも条件面を整える形で、離婚という解決に落着させ、次のステージに導くことができ、その後の報告が、「今、幸せです」というものであった
離婚をさせない、連れ去りも規制する状態では、単に破綻した夫婦に我慢した暮らしを強いるもので、その鬱積は、想像を絶する苦しみを双方、そして子どもにも及ぼしかねない
我慢の果ての弾みで深刻な結果を招く危険も想定しうる
連れ去り規制のある国は、破綻主義を用意して、その状態を脱する鍵が保障されているのだ
そのことをしっかり理解しなければならない
破綻主義だから、不貞を行った有責者からの離婚請求も認容される
離婚がしやすくなる
それは、日本のある層が最も警戒したいのではないか?
しかし、極簡単な理由で、気が変わったくらいの軽い感覚で離婚できるからこそ、父母としての信頼は守れるという捻じれ現象をもたらしうるのである
離婚への障壁が高い有責主義を原則として残す日本の離婚法制において、諸外国の離婚とは重みが全く違う
ひとり親の貧困リスクが世界に比して深刻であり、生半可ではうまくいかない(貧困を脱する現実的な選択肢が再婚しかないという言われ方もする)離婚後の暮らしに飛び込むだけの勇気と覚悟を要するといわれる所以である
すでに、連れ去り規制がぼんやりとだが存在するのである
#和製共同親権 ともいえるが、夫婦仲が冷めても夫婦をやめないで、共同親権関係を続ける例もまだまだ多い
熟年離婚をもたらすことにはなり、夫婦間の経済格差があると、一方が極端に不利になる(年金分割や財産分与でカバーしきれるとも限らない)が、子どもにとっては、成年に達するまで両親が親としていることは守られる
ただ、大人の年齢に達したからといって、子どもの立場からすれば、親の離婚で傷つくことは避けにくい。。。とはいえ、親のしあわせを願って、受け入れていく子どももいる
離婚しないことが正解ではなく、幸せでいてくれることが親を思う子の立場の本音ではないだろうか
子どものためが子どもを苦しめることになりかねない
もう夫婦の破綻が目に見えているのに、あなたのために離婚はしない、と言われることだって子どもにとっては、自分の存在を否定したくなる苦しい言葉だ
家同士の存続を目的とした婚姻文化では、親の指示で結婚が成立し、子どもが生まれるかどうかで、試し婚(しばらく産まれなかったらなかったことにして、追い出すことだってある)をしながら、皆で生きるために皆婚主義であった
その中には、同性愛者もいたのかもしれないけども、自分の本心をひた隠して生きるか、人知れずアウトサイダーの世界に潜り込んでいくか、皆婚ゆえの不幸だって蔓延していた
いつしか結婚は自由になった
出会って恋愛をして、自由な情愛関係に基づいて夫婦になることが許されるようになる
結婚の自由は、結婚しない自由も認められるようになる
同性愛者にとって、異性との婚姻は苦痛だったろう
皆婚状態では、独身でいること自体が特異な目で見られかねなかったことから、ずいぶん解放されていったはずだ
家という単位で社会を構成し、どこかに所属しなければ生きづらさと隣り合わせにあった時代には、その家から追い出される離婚は制限的でなければいけなかった
それゆえに、有責主義を掲げたのも合理的だった
結婚が自由になると、自分の判断だけで結婚できる分責任も重い
愛し愛される関係を維持しない限り、暮らすために関係を続ける理由を社会が与えてくれなくなった
独身で生きる自由があることで、離婚の自由も増える
苦しみながら夫婦という関係に束縛されることこそ辛くなる
離婚を躊躇させる理由として、かつては、旧姓に戻らざるを得なかったが、婚氏続称制度が用意され、氏のために離婚しないということもなくなったおかげで、逆に離婚による改姓を厭わないほどの自由も拡大していった
連れ去り規制は、破綻主義の完遂、離婚の自由の確約とセットでなければならないだろう
だがしかし、破綻主義こそ浸透しては困ると考える点について性差がないだろうか
破綻主義で構わない立場は、裏切られ、離婚を求められたことは傷ついたとしても、仕事や暮らしの損失をカバーできるだろう
破綻主義では困る立場は、自己に都合の良い条件での離婚であれば求めるが、離婚請求をされることになれば、最も不利な立場に追いやられかねない
共同親権制(連れ去り規制)があっては困るということだ(破綻主義になるから)
ものすごく弱い
そんなか弱い存在をかつて経済大国の日本は守ることができた
その結果、経済格差が深刻に温存されてしまった
経済力が綻んだとき、もう守れないというはしごを外されたときにどう生き延びるか
共同親権制こそが救いとなるのである
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