トイレットペーパーと不確実性

トイレットペーパーに群がる人を日本人は笑えない。

「いや〜昔、新型肺炎の流行した時にはね、街中からトイレットペーパーが消えたんだよ。」

「いやいや、そんなばかな話ないっしょ(笑)。」

恐らく10年後にはこんな笑い話が家庭や飲み会の席で繰り広げられることになるでしょう。

それほど狂乱を引き起こしてるトイレットペーパー、キッチンペーパー不足。

 

冷静に考えれば、マスクが品薄になっているからと言って、原材料が違うトイレットペーパーがなくなるはずがないことは分かりそうなものですが、こういう社会不安の状況ではそういう冷静な判断ができないんですね。人間とはなかなか難しい生き物です。

実はこのような「実際にはあり得ない噂やデマで人々が踊らされる」ということはよくある話で、これを社会学の用語で「予言の自己成就」と言います。

今日本ではこのようなトイレットペーパーに群がる人々を小馬鹿にする意見が散見されます。しかし、実は今の日本でそういった人を嘲笑できるような人はいません。なぜなら、ほとんどの日本人はこの数十年この「予言の自己成就」の下に行動し続けてきたからです。

今回はほとんどの日本人が今もなお囚われて続けている予言の自己成就についてお話したいと思います。 

 

予言の自己成就とは?

そもそもこの「予言の自己成就」という言葉はアメリカのマートンという社会学者が提示したもので

「たとえ根拠のない予言(=噂や思い込み)であっても、人々がその予言を信じて行動することによって、結果として予言通りの現実がつくられるという現象のこと」(「コトバンク」より)。

です。

今回のトイレットペーパー不足のように、実際にはあり得ないのだけど、一部の人達が社会不安の中で冷静な判断ができず、噂話にのった行動をしてしまうとその根も葉もないが本当のことになってしまうのです。

 

 

予言の自己成就の恐ろしさ

トイレットペーパーが不足するくらいの話ならまだ可愛い物です。

しかし、ときにこの「予言の自己成就」は深刻な社会不安を引き起こします。

たとえば1980年代のバブルの頃もある意味で同じことがおきました。

 

当時人々がこぞって群がったのがゴルフクラブの会員権です。別に皆がみんなゴルフをやっていた訳ではありませんが、そのゴルフクラブの会員権が投機の対象となり、単なる「ゴルフ場でゴルフができる」というだけの会員権が全国平均で4388万円(!)にもなりました。

このゴルフ会員権のように「別に欲しくはないんだけど、みんなが買おうとしているからもっと値上がりする (=儲かる) はず」と信じて、必要でもない物をみんなが借金までして購入。

バブルが弾けた後には、やりもしないゴルフの会員権とそれを購入するための数千万円の借金が残りました。この借金を返済するために一挙に投資や消費が縮小してデフレに突入。30年経った今もなお日本国民を苦しめ続けています。その原因の一端がこの「予言の自己成就」だったということです。 

 

世界で高まる不確実性

冷静に考えれば今回のトイレットペーパー騒動のようなことは起こるはずがありません。マスクの材料とトイレットペーパーの材料は関係ないのですから。

しかし、です。

決して起こらないはずのことが起こってしまう。

どんなに非合理的なことであっても、一旦社会の空気がそちらに流れてしまえば人々は平気でその非合理的な行動に突っ込んで行ってしまう。

これが世界の現実です。

しかも、このような非合理的な判断、不確実な事案というのは昨今増加する傾向にあります。

アメリカではトランプ大統領の就任後、各国との軋轢を強める方針が進行。昨年からは中国との貿易戦争も激化しています。単純にビジネス的利益の観点から言えば中国との貿易戦争は非合理的な判断としか言えません。ビジネス的観点では測ることのできない「国家安全保障」という側面から米中の対立激化は実際に発生しています。

また、英国のEU離脱も同じです。

EU離脱によって生じる経済的損失については多くの専門家が指摘してきました。しかし、実際に英国は離脱を実行しました。これもビジネス的観点では測ることのできない「国家主権」という側面から行われた選択です。 

 

グローバルな社会では不確実性の危険は高まる

世界が一つであるというグローバリズム的な考えは必ずしも真実ではないと思いますが、どのような形であれ世界の国々や人々の行動がお互いに影響を与えあっているのは事実です。そうであれば、どこかで誰かが起こした非合理的な、そして不確実な行動が私たちの社会にも影響を与えるということも事実。それは人々の距離が縮まれば縮まるほど加速します。

言い換えれば、このグローバルな社会では小さな不確実性が世界中に伝播する構造とも言えるのです。そして、その不確実性の波は一つ一つが小さくとも重なり合うことで巨大な波へと変貌します。

今回の新型コロナウィルス騒動も正しくその一例でしょう。中国の武漢市にある小さな市場から広がったウィルスが、世界を揺るがす大事件になると一体誰が想像できたでしょうか? 正しく世界を覆う不確実性の申し子と言える脅威でしょう。

 

不確実な世界で必要な“余裕”

このような不確実性の高まりの中で必要なものとは何でしょうか?

それはズバリ“余裕”です。

心の余裕。

人の余裕。

お金の余裕。

予想外の出来事が発生した時に、さまざまなリソースを組み合わせて解決するためにはそれぞれに余裕がなければなりません。余裕のない臨界点ギリギリの運転では、不確実な危機に対処することはできません。

 

しかし、残念ながら日本という国はこの不確実性を全く考慮しない方向へと社会を変貌させて来ました。政府は度重なる災害にも関わらず国土を強靭化するための対策や、生産性を高めるための社会資本への投資を放置、ないしは最小限の費用で最低限の対策に終始。一方、民間では必要な投資も行わない中で利益を最大化するため、社員を安い給料でギリギリまで働かせることを常態化させて来ました。

国民が全力でフル稼働して何とか体裁を保つという異常な状態を続け、お金にも、心にも余裕など全くない「今だけ、金だけ、自分だけ!」というこの状態で、新型コロナウィルスという不確実な事象が訪れたのです。政府の後手後手 & その場しのぎ対応に批判が集まっていますが、「不確実性を想定しない状態で不確実な事象が起きたら混乱して破綻する」などということは当たり前の話なのです。

 

冷静に考えてみればごく当たり前の話なのですが、そんな想定外のことを想定しないのがここ数十年の日本でした。

「想定外のことなんて起こらないという根拠のない思い込みであっても、人々がそうを信じて行動することによって、結果として“想定外のことがあり得るということを誰も想定しない”という現実がつくられる」。

まさに“予言の自己成就”です。

トイレットペーパーに群がる人々を、今の日本国民は誰一人笑えないのです。 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました😆

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