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To Coda


 華やかな舞台の上で、リセルシア・チェザリーニとファルシータ・フォーセットは軽やかに一礼した。演奏の終了と共に会場を包んだ観客の拍手は、未だに鳴り止むことがない。ピオーヴァ音楽学院の生徒が主体となった演奏会の幕引きを飾るに相応しい、素晴らしい演奏だった。

 フォルテール奏者、リセルシアの養父であるグラーヴェ・チェザリーニは、貴賓席のソファーに深く腰をかけたまま、目を閉じている。膝の上に置いた指が、フォルテールの鍵盤に押さえるかのように、かすかに動く。結局彼は、幕が下ろされ、演奏者が舞台脇に姿を消すまで、そうしていた。

 リセルシアとファルシータがロビーに姿を現したのは、それから一時間後のことだった。二人は、グラーヴェがこの日のために用意したドレスのまま、周りに集まった大勢の楽団員、指揮者、批評家の賛辞を浴びせられている。
 白を基調としたドレスを着たリセルシアと、黒を基調としたドレスを着たファルシータ。対照的な二人の少女は、舞台に咲いた二輪の花のように、大いに人々の目を惹く。舞台から降りた後も、二人はまぎれもなくこの演奏会の主役であった。
 
 グラーヴェは少女達の横に立ち、指導者である彼にも向けられた賞賛や感嘆の声を半ば無視するように聞き流していた。代わりにファルシータが、愛想良く応えているため、誰も気にもとめていない。一方リセルシアは頬を紅潮させ、堂々と受け答えするパートナーの横顔をうっとりと眺めている。
 三人の周りには常に人だかりができていたが、演奏を批評する者達が互いに意見を交わす中、隙を見てリセルシアがグラーヴェに尋ねた。


「コーデル先生はどうされたんですか?」
「具合が悪そうだったので先に帰らせたが……話でもあったのか?」
「あの……先生にもお礼を言いたかったので……」

 グラーヴェは少し考え、かすかに微笑みを浮かべて答える。

「そうだな。後日、機会でも設けよう」


 リセルシアはそんなグラーヴェを見つめ、驚きを隠せずにいた。以前の彼なら、絶対に言わなかったことだ。グラーヴェの変化を感じ取っていたのは、リセルシアだけではない。談笑しつつ二人の耳をそばだてていたファルシータもまた、リセルシアと同じ感慨を抱いていた。

 しかしファルシータは新たな人影に気を取られ、意識をそちらに向けた。視線の先には、遠くの出口から出ていこうとする二人の男女の姿があった。アーシノ・アルティエーレと、エスク・マリア・ローレン。二人は、恋人同士のように腕を組み、笑っていた。ファルシータはエスクの名さえ知らなかったが、二人の関係を推察し、女の顔を記憶に留めることを忘れなかった。
 やがて彼らの姿が完全に見えなくなると、ファルシータは再び自分達を褒めそやす会話の輪に戻っていった。


***


 演奏会から数日経った夜、コーデルとグラーヴェ、そしてリセルシアとファルシータは、新市街のリストランテでテーブルを囲んでいた。
 リセルシアとファルシータは、演奏会の時と同じドレスで、例えあの夜の素晴らしい演奏がなくとも、充分人の目を惹くことができることを証明している。コーデルは学院で教鞭を執る際にいつも着ているフォーマルなスーツといった出で立ちで、高級感の漂う店内で、少々居心地の悪い思いをしていたが、この日の朝、突然このような席を誘い受けたのだから仕方のないことだった。加えて、衣装を用意すると言ったグラーヴェの申し出を断った手前、平然としているより他ない。なによりコーデルは、ドレスで着飾り、エスコートを受けている自分を想像もできなかった。

 彼女を誘った当のグラーヴェは、いつもと同じ服装で平然とワインを頼んでいる。それとて、最高級の生地と仕立ての最高級品であったが。また、名だたる貴族であり、高名なフォルテール奏者でもある彼は、ピオーヴァの街に住む者なら知らない者はない。グラーヴェにとっては、気軽にカフェで朝食をとるといった程度の感覚でしかないのだろう。
 そのグラーヴェと一緒にいる、というだけで、コーデルを含む三人の女達は、羨望と好奇の眼差しで見つめられている。それはそれでコーデルなどにとっては、気まずさを感じる状況ではあった。しかし、少なくとも歓迎されていないということだけはなかったので、彼女は極力場違いな自分を意識しないよう、思い直してグラーヴェに話しかけた。


「先日の演奏会は、大成功でしたね」

 運ばれた食前酒に伸ばした手を止め、グラーヴェは軽く頷いた。

「そういう評価は確かにある」


 こうした場に慣れているはずのリセルシアは、珍しそうに辺りを眺めていたが、コーデルの発言に、居住まいを正してグラーヴェに向き直った。彼女の出自を思い出し、コーデルは納得する。もう一人の孤児院出の少女といえば、対照的に落ち着いた様子でコーデルとグラーヴェを見守っていた。


「だが、私から言わせれば、まだまだだ」
「グラーヴェ先生にかかれば、皆そうでしょう。しかし、楽団からの勧誘も少なからずあったようですが」

 リセルシアを受け持つ講師であるコーデルにも、彼女の行く末を打診されるほど、現在の彼女達は注目されている。

「確かに。だが、すべて断った。まだ早い」
「ええ、私達は未熟ですから」


 あいづちを打つように、ファルシータが言った。グラーヴェの生徒だったこともあるコーデルは、ファルシータがグラーヴェから演奏会の後、同じ言葉を言われたのだとすぐわかった。しかし言われた当人は気にしている様子もない。ファルシータの自信に満ちた顔からは、演奏会の感触を得たことがわかる。だが、グラーヴェからの未熟だという評価もまた、彼女は容易に受け入れることができるのだろう。褒めることで伸びる生徒、叩くことで伸びる生徒、それぞれ特徴があるが、ファルシータは完全に後者なのだろうと、コーデルは短い付き合いから悟っていた。


「それに……」

 ファルシータが、リセルシアを見つめながら続ける。

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