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3月31日

 歩き慣れた内科病棟の廊下を歩く。
 今日は日曜日。
 呼ばない限りは医師が病棟に上がってくることもないため、看護師も介護士も、スタッフ一同の動きがとても和やかだ。
 患者さんのお見舞いも多くて、病棟は全体的にざわついた、けれど、何となく楽しい雰囲気。
 平日とはガラリと違う、病棟の顔。
 休日の病棟の雰囲気は好きだ。
 ……好きなのだけれど……。


3月31日


 無人の詰所。
 平日より少ないスタッフは、どうやら全員が出払っているらしい。
 わたしはいつものとおり、詰所内のドクターデスクの椅子に座って、こらえていたため息をついた。
 わたしの名前は、大塚はつみ。この百合ヶ浜総合病院の内科病棟で主任看護師をしている。

「はぁ……」

 眉間に刻まれそうになるシワを指先で伸ばしながら、手元にあったファイルを取り上げた。
 それにしても、と考える。
 昨夜のステルベン(患者死亡)、今朝になっていきなり受け入れる羽目になった外科からの患者移動、患者同士のケンカ、患児のイタズラ、などなど、もろもろのトラブルで精神的に酷く疲れている。
 ファイルを開きながら、また「ふぅ」とため息をつく。
 いつもならこんなに疲れることはないというのに、新年度への切り替えがスムーズに行えていないことと、4月1日から受け入れる新人の準備もまだできていないことで、平常心が保てない。
 そういえば、今日って何日だったかしら……。
 そんなことを考えながら、ファイルの中の記録用紙をパラパラとめくる。
 思考がまとまらない。
 もしかしたらわたしはオーバーワークなのかもしれないわね、小野医師に軽い向精神薬でも処方してもらわないと……。
 そんなことを、ぼんやりと考える。

「はぁ~」

 ためいきが止まらない。

「ため息をつくと、幸せが逃げてく……て言いますよ~?」

 振り向くと、髪の毛をお洒落な形にアップにしている同僚看護師が詰所に入ってきた。
 彼女は、山之内やすこさん。ひょんなことから彼女と知り合い、彼女と意気投合した挙句に、「うちの病院に来て!」とスカウトした看護師だ。
 わたしが見込んだ通り、彼女は気さくで有能な看護師ではあるのだが……。

「……幸せ……ね。わたしには逃げていくような幸せなんかないわ」
「うわ、何やの、そのネガティブ発言!主任らしくないですよ?
 肩でもお揉みしましょうか?」

 そう言いながら、山之内さんはわたしの背後に回って、本当に肩を揉み始めた。
 適度な指の圧に、思わず鼻から吐息が漏れる。

「あ、あぁ……、結構上手ね、山之内さん……」
「んふふー、うちはこういうの、めっさ得意やからねぇ。それにしても、めっさ凝ってるやん、主任」
「そりゃ、肩も凝るわよ。都知さんのご家族とやり合ったら、あなたもうんざりするわよ……」

 思い出したら、またため息がこぼれた。

「あぁ、認知症で入院中の都知のジーサンなぁ……。ありゃあそろそろ退院させんと、金にならんやろ」

 ジーサン……。
 金にならん……。
 山之内さんの言葉に、ピクッと眉が動いたけれど、ここは敢えて無視をして……。

「そうなのよ……。
 コストのことだけじゃなくても、もう病院で治療するようなこともないのだから、そろそろ退院してベッドを空けてもらわないといけないのだけれど……」
「引き取り拒否、か」

 そう。
 老人の入院に関してはいろいろな問題がある。
 老人医療費の包括化により、入院して一定期間を経過すると、治療費が一気に引き下げられてしまい、何かケアや治療をしても、それは請求できなくなってしまう。つまり、病院の持ち出し……赤字になる、ということだ。
 だから、早く退院して欲しいと病院側は考えるのだけれど、家族側はそうはいかない。
 家につれて帰っても面倒を見られないから、とのらりくらりと退院を伸ばし、ひどい場合は音信不通となってしまうこともある。
 都知さんのご家族も同様で、都知さんが熱中症で入院してから半年以上、病院からの連絡を無視している状態だった。
 今回も、最後通牒という形で、簡易書留で連絡させてもらったところ、慌ててやってきた、というわけだ。

「病院は治療をする場だから、治療することのない患者さんでベッドをふさぐわけにはいかないのにね……」
「まぁなぁ……そりゃ病院側の言い分やからねぇ。
 家族側としては、手間のかかるジジババは病院に任しときたい、っちゅーんもわかるけどなぁ」

 ぐりっと肩を揉みながら、山之内さんはわたしのため息に同調してくれるけれど。
 ジジババ、という言い方は何とかしてくれないものかしら。

「せやかて、こっちかて慈善事業でやってんのと違うし、そもそも、病院は姥捨て山とちゃうねんからなぁ」
「…………」

 山之内さんの意見に、思わず黙り込んでしまった。
 有能な彼女の『困ったところ』のひとつが、この歯に衣着せぬ物言いだ。
 わたしとふたりだけの時はまだ良いのだけれど、他の看護師や介護士がいる時にも、看護師としては不適切な発言を繰り返している。
 注意しているが聞きもしない。むしろ、わたしが注意するのを面白がっているふしもある。

「で、姥捨て家族は主任の話、聞いてくれましたん?」
「……聞いてくれていたら、こんな顔をしていないわ……」
「せやろね」

 クスッと笑われて、何度目かのため息が漏れた。

「ところで主任?」
「何かしら?幸せなら、もう残っていないのは自覚済みよ?」
「いや、ため息の話やなくて、肩凝りの話」
「?」
「こんなにデカい乳ぶら下げてるから、肩が凝るんとちゃいますのん?」
「!!」

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