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「百合ヶ浜へのあしあと」 Part2


「戻りましたー!」

 他の病院ではどうかは知らないけど、百合ヶ浜総合病院の内科病棟では、詰所に入る時に、そう声をかける。

「おー、お疲れー!」

 詰所に入った途端、昼間はいなかった山之内やすこさんが声をかけてくれた。

「あ、今日の夜勤さんは山之内さんなんですね」
「あれ……でも、夜勤さんが来るのは早くないですか?」

 時計を見ながら、なぎさ先輩が首をかしげる。

「んー、気分転換に散歩がてら、出勤してみました!」

 相変わらずハイテンションな山之内さん。

「さて、沢井、さっきの306号での記録、するわよ?」
「はーい」

 なぎさ先輩に呼ばれて、わたしはなぎさ先輩の隣に座った。さっき、あみちゃんのお部屋で高校生の頃の話をしたせいか、何となくなぎさ先輩との間に甘い空気が漂ってるような気がして気恥ずかしい。
 そんなわたしたちを、山之内さんがじっと見てる。

「なーんか自分ら、いつもと雰囲気違くない?」
「そんなことないです」

 山之内さんの疑問を、サクッと否定するなぎさ先輩。
 あああ、そんな言い方したら、山之内さんの好奇心を煽ることになるのに……。

「ほほー? 藤沢ぁ、何か隠してんな?」
「何も隠してないです。さー、沢井ー、記録書きましょうねー」

 そそくさと記録用紙を出すなぎさ先輩。
 狙いを変えた山之内さんがわたしを見て、にっこり笑う。

「藤沢は冷たい子やねぇ。ええよ、ええもん、沢井に聞くから」

 う、わたしに話を振らないでください……。

「ほらぁ、沢井も困ってるじゃないですかぁ! もー、これってイジメですよ、イジメ!」
「イジメやなんて心外やわぁ、こーんなに可愛がってんのに!」
「山之内さんの場合は、よくも沢井を可愛がってくれましたね、ってアレですよね! そんな可愛がり方、いらないです!」
「うっわ、藤沢、生意気な子やね! ウシ沢のくせに!!」

 そんなふたりの間に挟まれて、わたしはものすごく居心地が悪い。

「あう……」

 とはいえ、別に秘密にしなきゃいけないことでもないよね、高校時代の話をしてただけだし。

「えっと……わたしたちの高校時代の話をしてたんです」
「自分らの?」
「はい、わたしが進路を決定したのはなぎさ先輩の言葉を聞いたからなので……」

 その時、山之内さんの目がキラーンと輝いた。ような気がした。

「ほほーぅ、その話、詳しく聞かせてくれへんか?」
「……いいですけど……」

 拗ねたようにそっぽを向いてるなぎさ先輩が気になったけど、わたしは306号室であみちゃんに聞かせた話を、かいつまんで話すことにする。
 わたしが話している間、山之内さんは何かメモしてる様子だった。
 こっそりそのメモを覗いてみたかったけど、怖いからやめておこう。

「で、その後は?」

 顔を上げた山之内さんは、興味津々な様子で訊いてきた。

「は?」
「その後、や。愛しのウシ沢先輩と別れて、看護学校に入った沢井の話」
「もー、あたしはウシじゃないです、もーもーもー、モガッ!」

 なぎさ先輩が山之内さんに口を塞がれた。
 時計を見ると、まだ少し時間がある。チラッとドクターデスクを見るけど、主任さんはいつもの涼しい顔で、レントゲンフィルムの整理をしていて、騒ぐわたしたちに注意をするような気配はない。

「えと……わたしの看護学校の時は、ですね……」


☆     ☆


 わたしの実家の最寄り駅から、バスで少し行ったところに蕾ヶ崎病院という私立の病院がある。その病院には看護学校が併設されていた。その名も、蕾ヶ崎高等看護学院。
 なぎさ先輩の後を追って、帝都看護に……と思わなくもなかったけど、両親や妹に心配をかけたくなかったので、進学先は地元の蕾ヶ崎にしたの。
 入学式の前、講堂に集まった同級生たちを見回すと、みんな、とても頭が良さそうに見える。本当なら溢れそうなワクワクで胸がいっぱいになるはずなのに、その時のわたしは、どんどん不安になっていったの。こんな頭が良さそうな人たちに混じって、わたしは看護学生としてちゃんとやっていけるのかな。
 不安に押しつぶされそうになって、涙が出てきそうになる。せっかくの入学式なのに、同じクラスの子がこんな風に泣いてるのを見たら、他の子だって不安になっちゃうよね。
 こんな自分が情けなかった。
 入学式が始まる前、そっと講堂を抜け出して、廊下の脇にあったトイレに駆け込んだ。
 手洗い場の鏡の中のわたしは、半泣きの顔をしている。

「わたし、大丈夫……だよね」

 鏡に向かって問いかける。すると、いつも決まって『大丈夫だよ、かおりちゃん』と頭の中で声がする。
 これがわたしの昔からのひとり遊び。
 不安になった時、さみしい時、わたしはこうやって、わたしが作ったもうひとりのわたしに話しかけて、平静を取り戻す。

「きっと大丈夫、だよね」

 鏡に向かって、微笑んでみせる。
 その時だった。

「あんた、何してんの?」

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