『たとえばこんな夜のはなし』
しん、と静まり返った廊下。
腰にぶら下げた懐中電灯の白っぽい光が、ゆらゆらと足元にまとわりついている。
特記事項なし。特記事項なし。特記事項なし。
巡回用紙に書く予定の言葉を頭の中で繰り返しながら、かおりは腰の灯りを手に取って、電源をオフにした。
「何もなかったかー?」
入職時から聞いているせいか、すっかり耳に馴染んでしまった関西弁で問われて、かおりは所定の位置に懐中電灯を戻しながら頷いた。
「全く間題ナシ、です。良かったー」
「さよか」
夜勤看護師は2名。本日の夜勤の相方は、先輩看護師でもある山之内やすこだった。
「あんたもはよ記録書いてしまい。夜は長いようで短いねんから、仕事はちゃっちゃと済ませな、何かあった時に困るで」
明るく返事をするかおり。
たった5年しか年は変わらないとはいえ、まだ2年目のかおりにとって山之内やすこという看護師は何でも知っていて、何でもできる大先輩にも思える人物という刷り込みがある。ゆえに、大船に乗った気分でいられるため、人数の少ない夜勤の相方がやすこであるというのは気が楽だ。
楽は楽なのだが……。
「…………」
「…………」
しん、としたナースステーション。
ボールペンを走らせる音が響く。ような気がする。
「えっと……、それにしても、夜の病院って少し怖いですよね」
「は? あんた、まだそんな入職したての新人みたいなこと言うてんのか」
顔も上げないまま、呆れた口調が返ってきた。
返事があったことは嬉しいのだが、こちらを見てくれないままだというのが気になった。
ので、ことさら大きな声で言う。
「だってぇ~! 静かだし、暗いし!」
「そんなんドコも同じやん? あんたの寮の部屋かて、あんたのいてへん間は静かで暗いやろ」
「そりやそうですけど! わたしがいない間は、静かで暗くてもいいんですー! 逆に、にぎやかで明るかったらダメじゃないですか」
「そおか?」
「だって、それって電気消し忘れて出て行ったってことでしよう? 電気代がもったいないじゃないですか」
「うわ、急に所帯じみたこと言い始めよったで、この子は」
記録から顔を上げた顔はやっぱり苦笑じみた表情だったが、かおりにはそれで満足だった。
「電気代って言っても、そんなに取られるわけじゃないとは思うんですけどね。でも、だーれもいない部屋を明るく照らして、しかも、テレビまでついて……って、そういえば、わたしの部屋、テレビがありません!」
「テレビがないのに、にぎやかで明るかったら怖いなあって話やねんけどな?」
にやり、とやすこが笑う。
一瞬、しまた、と思ったかおりだったが、既に時遅し、だ。始まってしまった話題を、何もなかったことにはできないし、それを許してくれるような相手でもない。
「ど、どういう意味です?」
おそるおそる、続きを促してみる。
「実は、あんたがいてへん間に遠隔操作か何かで明かりがついたり消えたり……」
「なんですか、ソレ」
想像の斜め上の内容に、呆れ声が出た。
が、相手は怯む様子もない。
「遠隔操作とかやったらエエけどな。実は誰かが忍び込んでて……とか」
「ちょ、やめてくださいよ!」
容易に想像できてしまったので、思わず大声が出る。
「で、あんたが帰ってきた気配を察して、慌てて明かりを消して、どっかに隠れる」
「ちょ……っ!」
「何も知らんあんたは、はー疲れたーとか言いながら、暗い部屋の電気をつけて……」
「やああああん、もおやめてくださいぃぃぃ~~~」
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