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ちあきなおみ~歌姫伝説~21 最後の一年・前篇

 一九八〇(昭和五五)年、戦後からつづいた経済成長も一区切り、時流に乗りに乗った日本人の心の向きも、七〇年代の考え方やものの見方から新しい感覚、感性へとバランスを移行しはじめる。「さて、百恵ちゃんも結婚したことだし」といった台詞を、私は何度も大人の口から聞いた記憶があり、山口百恵の引退は大衆文化の中で、明らかに時代のエポックメーキングとなったのは間違いないであろう。
 この年は、山口百恵と入れ替わるように松田聖子がデビューし、社会現象となる人気を誇ったピンク・レディーが翌年(八一年)の解散を発表する。アメリカでは、日本の高度経済成長と歩を合わせるように、音楽という文化を創ったビートルズの元メンバー、ジョン・レノンが射殺されるなど、振り返れば、時代が移り変わるメルクマールとなる出来事が相次いで起きている。

 そして八〇年代初頭、歌謡界では、松田聖子を皮切りに、中森明菜、小泉今日子など、アイドル歌手黄金時代を迎える。一方、七〇年代後半から台頭してきた、アリス、オフコースといったニューミュージックが全盛を迎え、サザンオールスターズ、YMO、RCサクセションなどのロックミュージックがヒットチャートを席捲し、その後、安全地帯、TM NETWORK、米米CLUB、THE BLUE HEARTSなどのロックバンドが一世を風靡。その流れは八〇年代後半に起こった、空前のバンドブームへとつづいてゆくのである。
 九〇年代に入ると、歌謡曲は徐々に衰退してゆき、アイドル、ヒットチャート番組などが影を潜め、CHAGE&ASKA、`Bz、DREAMS COME TRUEといった、シンガーソングライターなどのミュージシャン系の歌がヒット曲上位を占めて巷を賑わし、連綿とつづく歌謡界の歴史がまさに変わろうとしていた。この頃になると、テレビ、ラジオなどのメディアに依存することなく、音楽雑誌やライブハウスでの評判、口コミなどでメジャーシーンへと進出してゆくアーティストも多く、ヒット曲は老若男女、だれもが知っているものではなくなってゆくのである。そして歌は、聴衆各々が自分の好みで、探して選んで聴く時代となっていった。その結果、ヒットチャート一位の歌を、ごく一部の若者しか知らない、といった現象も起きてきたわけである。
 この流れの中で、プロダクションはコマーシャルの仕事を取ることに奔走し、音楽は時代に敏感な若者を中心として市場に新しい勢力を獲得してゆく。そして、"トレンディドラマ"と呼ばれた人気テレビドラマとのタイアップでミリオンセラーを連発させながら、いつしか歌は、東京ドームなどのビッグな会場で歌うもの、聴くもの、といった具合に資本主義に組み込まれ、その本質はクライアント主導型のセールス論に形を変え、CDの売上枚数の背景となってしまった観さえあった。
 このような音楽シーンを横目に、私が真正面に出逢ったのが、ちあきなおみという存在だったのである。
 時は一九九一(平成三)年、日本のバブル景気が後退し、崩壊へと歩を進めはじめた年だった。

 私がちあきなおみのマネージャー兼付き人として過ごした最初の一年間は、結果的に、ちあきなおみが現役歌手として活動した最後の一年間だった。この一年間をちあきなおみ的に要約するならば、「その日がくれば、歌いたくても歌えない。また、その日がくるまで、歌わなければならない」となるだろう。
 そして「その日」は、一九九二(平成四)年九月十一日、最愛の夫であり、最も信頼するプロデューサー、マネージャーでもあった郷鍈治の死によって訪れたのである。

 今思えば、私のちあきなおみ体験最初の一年間、ちあきなおみは明らかに自らの歌手活動の終焉を予感し、その幕引きを意識していたと思われる。このことは、現在の状況、結果からプレイバックして再構築した話ではなく、私が至近距離で見たちあきなおみの物腰や、言葉の抑揚の中に漂うニュアンスなどから汲み取ったものである。
 それはひとえに、私にとっては双頭の鷲であった郷鍈治、そして郷鍈治なきちあきなおみは存在しない、と言い切れるふたりの絆と愛の姿によるものである。その姿がバランスを失いはじめたとき、ちあきなおみはすでに諦観の念に達し、断歌の決意をしていたものと思われるのである。
「もう会うこともないと思いますが・・・・」
「今後は歌うこともそんなにないと思いますが・・・・」

 私は仕事の現場で、関係者に話すちあきなおみのこういった言葉を度々聞いており、当時の状況からしても、独特のジョークとは思えない切実さが、言葉の裏側に込められていたように感じられるのだ。
 そしてこれはあくまでも私の推測であるが、たとえ郷鍈治の死というものがなくとも、ちあきなおみとしての活動は、引退という形を採らずとも、それほど長くはなかったであろうと思うのだ。
 老子の言葉に、「功成り名遂げて身退くは天の道なり」とあるが、私はふたりにこういった精神を感じ取っており、いつまでも無理をして歌いつづけることよりも、人としてどう人生を生きてゆくのか、という方向へ舵を切ったのではないかとの思いが頭をもたげてくる。
 結果的には、ふたりから私が感じ取った、このような物事に対する構えが、ちあきなおみの沈黙と深く関わっている気がしてならない。
 そして奇しくも、プロデューサーとアーティストとしての郷鍈治とちあきなおみの仕事は、その最終章において、良き歌を後世に継ぎ渡すかのような趣を帯びているのである。

 一九九一(平成三)年、ちあきなおみは二枚のアルバムをテイチクから発表している。
 七月に「すたんだーど・なんばー」、十月には「百花繚乱」と、短いスパンで、どこか急くように立てつづけにリリースされている。これは事務所やレコード会社の戦略的なものも絡められているのであろうが、現在から辿り直す限りにおいては、なにか因果律めいたものを感ぜずにはいられない。

 「すたんだーど・なんばー」の中から先行して、六月にシングルカットされた「黄昏のビギン」(作詞・永六輔 作曲・中村八大)は、当時、一九五九(昭和三四)年、「黒い落葉」(作詞・永六輔 作曲・中村八大)のB面として初発表(歌唱・水原弘)されてから三十年以上経過しており、それまでキャバレーやスナックなどではかくれた名曲として地味に歌い継がれてはいたものの、なかなか日の目を見ることはなかった。しかし、ちあきなおみの歌唱によって、時代に置き去りにされた観のあったこの歌に、新たな生命が吹き込まれるのである。作曲の中村八大氏は、「服部隆之による編曲である、ちあきなおみバージョンが一番好きだ」といった主旨のコメントを残し、翌年他界している。
 生まれ変わった「黄昏のビギン」はその後、京成電鉄「スカイライナー」(一九九一年)、ネスレ日本「ネスカフェ・プレジデント」(一九九九~二〇〇三年)、トヨタ自動車「ReBORN DRIVE FOR TOHOKU」(二〇一一年)のCMに起用され、一九九二(平成四)年に公開された、映画「死んでもいい」(石井隆監督)の挿入歌として使用されるなど、再び、三度と認識され語り継がれ、多くのアーティストによってカバーされ歌い継がれながら、今まさに日本を代表するスタンダードソングとなっているところに、この歌とともに歌手としての役割を背負った、ちあきなおみの運命的なドラマを感じてしまう。
 その歌唱は、当時からさらに三十年以上経過した今聴いてみても、新しい。物語のはじまりを告げるような幻想的な前奏の後、「雨に濡れてた たそがれの街」と歌いはじめられると、カラー作品であるのにセピア色をした映画のような、淡くぼやけた雨の夜が、聴くたびに違った形ではっきりと見えてくる。
 カバー曲でありながら、ちあきなおみの歌の中でも圧倒的人気を誇る「黄昏のビギン」は、後世にもお色直しをほどこされ、再生されてゆくであろう。この名曲を復活させ、現在もバトンを渡しつづけるかのような仕事の功績は計り知れないという思いを、私は噛み締めざるを得ないのである。

 アルバム「すたんだーど・なんばー」は、昭和初期の日本の名曲を、原曲の持ち味を残しつつ現代風にアレンジし、新たなスタンダード・ナンバーに生まれ変わっている。
 この年の十一月十九日から翌月二日まで、東京グローブ座で上演された音楽劇「ソングデイズ」(栗山民也演出)では、アルバムに収録された曲の中から、「東京の花売娘」(作詞・佐々詩生 作曲・上原げんと)、「宵待草」(作詞・竹久夢二 作曲・多忠亮)が劇中歌として歌われている。
 次回は、この「ソングデイズ」、そしてあの、ちあきなおみ伝説の一人舞台「レディ・デイ」について書いてみたい。
               つづく

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