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ちあきなおみ~歌姫伝説~23 新たなる刻印

 一九八八(昭和六三)年、ちあきなおみ「伝わりますか」「紅とんぼ ちあきなおみ 船村演歌を唄う」「夜霧よ今夜も有難う ちあきなおみ 石原裕次郎を唄う」と、三枚のアルバムをテイチクから発表している。
 個人的見解ではあるが、当時四十歳のちあきなおみの歌唱は絶頂にあると思われる。
 特に「紅とんぼ」(作詞・吉田旺 作曲・船村徹)は、一九七六(昭和五一)年に発表された「酒場川」(B面・矢切の渡し)以来十二年ぶりの船村徹作品(作詞・石本美由紀)であり、この年の「第39回NHK紅白歌合戦」に、十一年ぶりの復帰出場を果たした歌である。
 ちあきなおみが一九九二(平成四)年に活動を停止してから数年後、復帰待望論渦巻く中、
「もう一度歌わせることができるのは船村徹しかいない」と言われ、船村徹自身も強くそれを望んだが、実現することは叶わぬ夢となった。
 そして、昭和時代の終焉と重ね合わせるように、新宿駅裏の赤ちょうちんの女将が店を閉め田舎へ帰るという、吉田旺の物語性ある歌詞は、人間同士の繋がりが濃密だった古き良き昭和の頃を彷彿とさせ、ノスタルジーな想いに駆られる。
 終始笑顔を見せながら、情で客に語るように歌い上げるちあきなおみの表現は、最後の最後に、想い出とともに目にいっぱいとなる涙によって、この歌を一本の長編映画のような感動物語に仕立て上げている。それは、ちあきなおみの真骨頂とされる、「ねえあんた」(作詞・松原史明 作曲・森田公一)とどこか通底しているものがあり、ちあきなおみ路線上における、演歌を超越した叙情歌と言えよう。
 「紅とんぼ」は、小林幸子石川さゆり桑田佳祐などによってカバーされ、「紅い花」同様、ジャンルの枠を超えた日本の良き歌として歌い継がれてゆくことだろう。

 それにしてもちあきなおみという歌手は、アルバムのタイトルからも窺われるとおり、その守備範囲は広域にわたっている。それは一歌手がホームグラウンドから離れ、アウェイで挑戦しました、という趣とは異なり、そこにきっちりと独自の世界を構築してしまうのだから、ただただ感服するばかりである。
 結果的には、その広く深い活動の歴史は、「ちあきなおみはこんな曲も歌っていたのだ」という新鮮味を伴った驚きを喚起させ、現在も"ちあきなおみ世界"を色褪せないものとしているひとつの要因であるのであろう。

 そこで「夜霧よ今夜も有難う」(作詞・作曲・ 浜口庫之助)であるが、ちあきなおみの歌唱は、豊かな情緒の昂揚に全身をまかせるように歌われ、その歌詞のように切ない想いを霞ませ、心地よい夢の世界へと誘われる。
 私はリアルタイム世代ではないものの、高校時代の親友が石原裕次郎の奥方の甥っ子であり、よく薦められてこの歌を聴いていたものだが、倉田信雄によりアレンジされた、ちあきなおみ版「夜霧よ今夜も有難う」は、一曲の歌とはこれほどまでに色合いを変えることができるのだという、感嘆の念を抱かずにはいられない。
 この歌は必ずコンサートやディナーショーで披露されたが、私も舞台袖でうっとりしながら、思わず一緒に歌っていたものである。
 一度、コンサートのスタジオリハーサルで、バックバンドのメンバーに録音を頼まれたことがあった。スタジオリハーサル時、私は常にセンターに座るちあきなおみの真後ろに控え、楽譜を交換したりドリンクを差し出したり、また、ドラマの台本に目をとおしたり新聞・週刊誌などに掲載予定の本人コメントを直したりと忙しいわけだが、あとでレコーダーを皆で確認すると、この歌のときは特にちあきなおみに合わせて歌う私の歌声で占められており、バンドメンバーの苦笑とちあきなおみの椅子から転げ落ちるほどの大爆笑をいただいたものだ。

 ちあきなおみは歌前のMCで、石原裕次郎を語っていた。

「石原裕次郎さんは私にとって、憧れの男性でした。幸いにも何度かお会いさせていただいたことがありまして、そのとき裕次郎さんは、私のような美女を横にしてかなり緊張されている御様子でしたが、やはり大スターという感じでした」

 後半部分は、愛嬌あるちあきなおみ節炸裂といった感じで失笑してしまうが、その照れかくしのような言い回しの中に、ちあきなおみの石原裕次郎愛を感じ、どこか暖かい気分に包まれてしまう。
 ところで、石原裕次郎は一九七三(昭和四八)年に発表された、「石原裕次郎 ナイトクラブムード」というカバーアルバムの中で、「喝采」を歌っている。こちらもちあきなおみ版「夜霧よ今夜も有難う」同様に、石原裕次郎版として、オリジナルとは違った独特のムードが醸し出されている。
 実は、私は最近になってこのことを知り、男でも「喝采」を歌えるとばかりに石原裕次郎になりすまし、仕事の帰り道によく口ずさんでいる。様になっているか?・・・・、まあそれは、私のちあきなおみへの想い入れと、石原裕次郎への憧れということで聞き流し、八八年に目線を返していただこう。
 時の日本はバブル景気絶頂期にあり、この年、国内経済も日経株価が初の三万円台を突破、世界ではイラン・イラク戦争停戦が正式に成立し、ソウルオリンピックが開催された年でもあった。しかし、年末には消費税法が成立し、バブル崩壊の足音が忍び寄っていた。
 実はこの年は、検証し直してみれば、バブル景気と歩を合わせるかのように、奇しくもちあきなおみ最終章の幕開きの年だったのである。
レコード会社をテイチクに移し、アルバム「伝わりますか」を引っ提げ、十年ぶりとなる歌番組の出演など、本格的な歌手活動を精力的に行っている。
 アルバムの中から、「役者」(作詞・荒木とよひさ 作曲・浜圭介)がシングルカットされ、飛鳥涼(現・ASKA)提供作である「伝わりますか」「イマージュ」や、「かもめの街」(作詞・ちあき哲也 作曲・杉本眞人)、「冬隣」(作詞・吉田旺 作曲・杉本眞人)など、あらゆるジャンルの歌に挑戦してきたこれまでの集大成として、ちあきなおみ路線の歴史に新たなる刻印を打ち込んだのだ。
 中でも「かもめの街」は、オリジナル作品を模索していたちあきなおみにとって、「私のイメージどおり」と言わしめた名曲である。作曲の杉本眞人は、ちあきなおみを自身の最も尊敬する歌手と公言し、「憧れのちあきなおみさんが歌ったとき、全身に震えがきた」と語っている。
 作曲家と歌手の関係性は、野球の名捕手がこの投手の球を受けてみたいと思わせるのに似て、作詞家同様に、お互いの持ち味を引き出し、引き出されるという構図が読み取れる。その点においてこの歌は、両者のあいだにまったく開きがなかったのだ。
 そして歌が10ならば、それを20にも30にもしてしまう歌唱は、「ちあきなおみはオタマジャクシ(音符)の裏側が歌える」という船村徹の言葉と繋がってくる。実際に私もこの歌を何回も生で聴いたが、歌詞部分ではないビブラートの中に、主人公の人生を描くような、厳しく深い波のうねりが見えた。こういった歌の表情づくりは、単なる一歌手の枠をはみ出しつづけた、ちあきなおみの凄みというものであろう。
 「かもめの街」はその後、二〇〇〇(平成十二)年にシングルカット、歌番組では多くの歌手が歌い、すぎもとまさとのセルフカバー、二〇二〇(令和二)年には氷川きよしがカバーするなど、ちあきなおみが打ちつけた印は、現在も歌謡界に刻み継がれている。
 以上が、一九八八年のちあきなおみにおける主だった辿り直しであるが、私の目には三十年以上も前のひとつひとつの歌が、今も新鮮な歌としてよみがえってくるのだ。それは私の下司の勘ぐり的視点で捉えれば、現在の歌謡界の、過去の歌を再び新しい光に映し出してみるとする〝カバーソング〟〝昭和歌謡〟〝伝説の歌姫〟ブームの背後にある、過去の財産に頼らざるを得ない、もの寂しさやもの足りなさといった状況を露見させる現象であるのかもしれない。もはや現在、歌謡ファンの歌への眼力、感性は、業界関係者さえも太刀打ちできないほど肥えて豊かである。その内実は、跡形もなく消えてゆく時代に寄り添った歌よりも、現代に失われた魂の歌への、感傷ではない飢餓感にも似た欲求なのである。やはり歌謡ファンは、いつの時代も人間の匂いがする、本物の歌が聴きたいのだ。
 そういった意味では、時代の中で生まれてくるにすぎない歌に対して、一歩も引かなかった郷鍈治とちあきなおみの仕事の功罪は大きい。
ドイツの劇作家、ベルトルト・ブレヒトの台詞のように言うならば、「ちあきなおみのいない歌謡界は不幸だが、ちあきなおみを必要とする歌謡界はもっと不幸だ」となるからである。
 ひいては、ちあきなおみ伝説は今後も時代に左右されることなく、歌謡ファンの最後の一葉として、リフレインされつづける宿命にあると言える。

 そこで、現在自明の如く"伝説の歌姫"と冠されるちあきなおみが、私に言わせれば伝説の核心となる、一九七七年から一九八八年までの約十年間の変遷の軌跡を探ることが必要となってくるのだ。
 ただ、七七年、「夜へ急ぐ人」で一瞬にして歌手としての輪郭をはっきりと見せつけながら、翌年、ちあきなおみは突如として歌謡界から姿を消し、八八年の最終章に到達するまで口を噤んだまま、表立った歌手活動をしていないのだ。これは非常に意味深である。この項で前記した「十年ぶりとなる歌番組出演」となったのは、このためだったのだ。
 この、ちあきなおみの一度目の歌謡界からの"家出"事件は、いったいなにが原因で、どのような示唆をはらんでいたのだろうか・・・。
 この事件の謎を解きほぐすため、次回からは歌手・ちあきなおみのイデオロギーが、当時の歌謡界といかに交錯していたのか、また、そのイデオロギーとはなんであるのかを洗い直してみたい。
               つづく

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