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ちあきなおみ~歌姫伝説~最終回 ラストライブ さようなら ちあきなおみ

~それぞれの愛~ コンサート

〔百花繚乱〕
(作詞・水谷啓二 作曲・倉田信雄)
 オーバーチュアが静まりドラムがカウントを取ると、ステージ両サイドからのサスペンションライトがステージ中央で交差し、おぼろげにちあきなおみの姿を照射する。前奏に乗って徐々に両腕を下から横に広げてゆくと、脇下から手首下まで仕掛けられた裾が孔雀の羽のように全開となる。そのシルエットからは一線級歌手のオーラが漂っている。
 すかさずピンスポットライトがその姿を浮き彫りにして捉えると同時に、客席から拍手と歓声が上がる。
 オープニング曲に相応しいポップでリズム感ある歌は、繊細な女心を紡いでゆくようで、歌う表情は常に変貌してゆく。スタンドマイクを両手で優しく包み込むようにして歌う声は、軽やかにして潤いにみちている。
 間奏部分では、まるで野に舞う蝶のように緩やかに前後左右へと身体を移動させ、ステージはムード満点に歌の世界観の中に観客を引き摺り込んでゆく。後半、再度蝶の舞いを見せるが、今度は緩やかな中にもはっきりとした意志があるような舞となっている。ちあきなおみの表現には、繰り返しというものがない。
 歌は、したたかにステージを百花繚乱にして終わる。

〔かもめの街〕
(作詞・ちあき哲也 作曲・杉本眞人)
 暗闇の中、かもめの鳴き声の効果音がこだましている。

  おまえも一生 波の上
  あたしも一生 波の上
 
 ちあきなおみがそっと呟くと、歌ははじまる。
 前曲から一転して、その表情には気怠さが漂い、観客に話し掛けるように、かもめに自身を投影し祈るように歌を語ってゆく。その語り口は、なにもない薄暗いステージに、寒い朝焼けの海に吹く潮風を運んでくるようである。
 ちあきなおみは歌いながら、明け方の海空を飛びまわるかもめを追うように、天空を見上げては、ちょっとした身体の動きの中に主人公のやるせなさを表現してゆく。
 さらりと、いかにも投げやりに歌っているようでありながら、歌声はどこまでも伸びゆき懐深い。

〔帰れないんだよ〕
(作詞・星野哲郎 作曲・臼井孝次)
 今度はまた一転して、故郷を捨てて、いまは都会の裏町暮らしの男の郷愁を歌う。
 どんなに帰りたくても帰れない・・・・。

 男は誰でも故郷を持っている。それは女にはないものである。女は、生きていた月日を思い出すとき、それが夫であったり、家であったり、山鳩の啼いている森であったり、お祭りであったりする。だがそれは故郷とは別のものだということを男は知っている。故郷というのは、二度と帰ることの出来ないものであり、いつもさびしいものなのである。
                         (悲しき口笛・寺山修司)

 ちあきなおみはいつもこの曲を歌うとき、男の意地と夢と恋とともに泣いた。

〔夜霧よ今夜も有難う〕
(作詞・作曲・浜口庫之介)
 
  しのび会う恋を つつむ夜霧よ
  知っているのか ふたりの恋を

 歌いはじめるとステージの状況は一変し、すぐさま脳裏に歌の情景が浮かんでくる。このあたりで、ちあきなおみという歌手の器の無限大さに驚きを禁じ得なくなってくる。一曲、また一曲と、まったく異なった世界を歌い込めることができる歌手はそうはいないだろう。
 心地よいサックスの音色に乗せて身体を左右に揺らしながら、ムード歌謡の贅沢な雰囲気を醸し出す。
 そしてなによりも、この歌をジャズのようでブルースのように変えてしまう歌いこなし方に、やはりだれにも真似のできないちあきなおみの凄みが垣間見える。

〔スタコイ東京〕
(作詞・作曲・北原じゅん)
 日本のスタンダードソングとしても親しまれているこの曲は、鳥取弁を用いて、母親が東京に出てゆく息子に都会で生きるための注意喚起をする、という歌である。
 〝スタコイ〟とは、すばしっこい、手が早いという意味だが、鳥取では、抜け目がなくてズルい、というニュアンスで使われている言葉であるらしい。
 やや前かがみに背中を丸めて母親を演じ、軽妙なテンポに乗って、こぶしを多種多様に効かせながら、語り部分では絶妙な方言を駆使して観客を爆笑の渦に巻き込む。この少しとぼけた味も、ファンにとってはたまらない、ちあきなおみの真骨頂のひとつであるだろう。

〔黄昏のビギン〕
(作詞・永六輔 作曲・中村八大)
 そして、この歌である。
 前奏がはじまるや否や、客席から歓声が上がった。
 ちあきなおみは絹のように柔らかく、またしっとりとした歌声で、あの、たそがれの街を思い浮かべ、甘美な響きの中にただ身を任せてゆくようである。「歌いはじめれば、主人公がひとりでに動いてくれる」という本人の言葉は、まさにこういうことなのであろう。
 やがて、ピンスポットライトが上半身のみを照射すると、まるで想い出を相手に、緩やかに上手下手に身体を移動させながらワルツを踊っているようである。霞がかった幻想的なたそがれの街が、主人公と観客を優しく包み込み、歌の世界観が見事に構築されてゆく。 
 ここにきて、ちあきなおみの歌声はますます潤いを帯びてくる。
 ステージは暗転となる。

〔朝日のあたる家(朝日楼)〕
(アメリカ民謡 訳詞・浅川マキ)
 暗闇の中での前口上の後、ピンスポットライトがステージ下手側を狙うと、黒のロングスリップドレスに衣装替えしたちあきなおみが佇んでいる。
 ステージは一転して、夜の中の闇へと趣を変える。
 ほぼ直立不動の状態で、声を張り上げ、そして潜め、歌う。ちあきなおみは、歌謡界最高峰の使い手とされるクレッシェンド・デクレッシェンドで抑揚をつけながら、娼婦に身を落とした女の暗黒な情念を歌に叩き込んでゆく。それはまるで、自身の体内にある音響ミキサーで、音量と感情の操作を変幻自在に操っているかのようである。
 この歌は、ロックかバラードかブルースなのか、わからなくなる。いや、なによりも、ちあきなおみ、これであるだろう。
 間奏のギターソロの旋律は、絶望を抉り出すように主人公の情念を煽り、不気味な怖さをも感じさせる。ちあきなおみには主人公が憑依し、朦朧とした表情でふらふらと一歩、二歩と前へ倒れそうになる。もしかしたらこのまま逝ってしまうのではないか、と思わせるほど危険な匂いがステージに漂いはじめる。
 そしてエピローグに至るまでの歌唱は、もうこれで終わってもいいというくらいの、余力を振り絞るような、観客の魂を射貫く絶唱である。
 その内喉頭筋が隆起するかのような声量は凄まじいものであるが、それは声帯の鳴りの強さを誇示して説き伏せるのではなく、しっかりと物語に感情を乗せ、歌世界に観客を巻き込んでゆく歌唱だ。このとき、尋常ならぬ屈強な顎は上がることなくむしろ引かれ、まったく無駄な力は入っていない。ステージ中盤前における自身のコントロールは、やはり百戦錬磨に相応しい精密さである。
 そしてステージは、徐々にちあきなおみ路線の全貌を覗かせてゆく。

〔ハンブルグにて〕
(作詞・作曲・Claude Delecluse & Michele Senlis-Marguerite Monnot 訳詞・永田文夫)
 フランスの画家、ロートレックが描いた「黒い羽毛のショールの女」から抜け出してきたかのような女が港でひとり、だれにともなく話し掛けるように過去を振り返っている。
 かの、フランスのシャンソン歌手・エディット・ピアフが、娼婦を歌った痛切なバラードである。
 ここに、日本語で歌われる本物のシャンソンがある。
 なにもセットのないステージに、ちあきなおみは、港、船、カモメ、男と女を観客の想像の内に具現化してゆく。ただ歌唱のみで、目に見えない装飾を想像の中に組み立ててしまう演技能力に、ステージに余計なものがなにもないことの豊かさを感じる。
 ちあきなおみは歌っているようで語り、語っているようで歌っている。この不思議さ、これは歌手として簡単には真似のできない妙技というものであろう。敢えてメロディから逸れ、音符どおりに上手く歌っては表現できない世界というものがあるのだろう。これは生半可な歌手には決して演じ得ることのできない、価千金の歌唱である。

〔ねえあんた〕
(作詞・松原史明 作曲・森田公一)
 ステージ上にはスポットライトがふたつ当たっている。ひとつには、女がひとり。もうひとつにはだれもいない。女であるちあきなおみは、そっと、だれでもないあんたに語り掛ける。
「ねえ あんた なんかとってあげようか・・・・」
 思わず返事をしてしまうほどの自然な語り口による歌唱である。
 歌というものは非常にモノローグ的なものである、という観点から見れば、この歌は一歩、二歩と進んで、主人公とのバーチャルな対話が可能であるという、ダイアローグできる歌として、ライブ感にみちた情緒を喚起される。言文一致しない日本語において、この歌の歌詞は徹頭徹尾、書き言葉ではなく、話し言葉で綴られており、歌で聴者とのコミュニケーションを可能にする、真の意味での歌のダイアローグ性を産み落とした一曲であるだろう。
 寂しくも温かいピアノソロのメロディーとリズムに乗せて物語は語られてゆく。遊女の可愛さ、寂しさ、思いやり、追憶、希望、絶望、諦め、別れ、涙・・・・。歌は愛おしいまでに切なく歌い語られてゆく。
 この歌の主人公とちあきなおみが二重写しとなって見えてくる。歌を、主人公を、ちあきなおみを、動かない一コマにして、もうなにもかもを抱いてしまいたくなる・・・・と、客席のどこかにいる幾人ものあんたは思うのである。
 そして、ステージは暗転の後、一転して雰囲気を変える。

〔矢切の渡し〕
(作詞・石本美由紀 作曲・船村徹)
 ピンスポットは下手から登場した庇髪に和装姿のちあきなおみを捉える。
 客席からすかさず、意表を突かれたような歓声と拍手が起こる。ここに松原史明の妙なる構成と演出が光る。
 ちあきなおみは、どこか楽しんで歌っているように感じられるが、男と女を瞬時にして演じ分け、その道行きの覚悟を強く切なく炙り出す。どこまでも深く、濃く、心に染みてくる歌声に、やはりこの歌はちあきなおみでなければと、つくづく感じさせる。

〔涙の酒〕
(作詞・伊吹とおる 作曲・小池青磁)
 一九六四年、大木伸夫の歌唱(作詞・中山邦雄と表記)で一世を風靡したこの歌は、その後多くの名歌手によって歌い継がれているが、ちあきなおみの歌唱は、男が歌うよりも男の哀愁と心を歌い込んでくる。
 ステージでの立ち姿は、まさに着流し姿の男のようである。その表情に、本物の歌手の貫禄を思い知らされるようだ。

〔兄弟船〕
(作詞・星野哲郎 作曲・船村徹)
 雄々しい前奏がはじまると、ちあきなおみは少し照れるような表情を見せたが、徐々にその顔は男の気配を帯びはじめ、ドキッとしてしまうほどの凛々しさに変貌する。
 この歌をリストに入れ込んできたのは、松原史明の挑戦であるだろう。受けて立つちあきなおみの歌いっぷりは、豪快にして威勢よく、ど演歌ど真ん中での直球勝負が行われているかのようである。男が聴いても、血が逆流し、惚れ惚れしてしまうくらいに荒々しく、頼もしさを感じさせる歌声が響きわたっている。どういうわけだか涙をこぼしている観客がいる。こういうところにも、ちあきなおみの歌手の力量を窺い知ることができる。
 歌い終わり、やや満足がいったのであろうか、それとも照れかくしであろうか、ちあきなおみは珍しく、歌い切ってやったぜ、というような素の表情を一瞬見せた。

〔紅とんぼ〕
(作詞・吉田旺 作曲・船村徹)
 と、しっとりとした声で「紅とんぼ、聴いてください」とやり、趣を一変させる。この、前曲からの継ぎの絶妙さに、安堵したかのような晴れやかな笑声が客席から起こる。心地よく観客を裏切ってゆく、海千山千の構成ぶりである。
 哀感漂わせるクラシックギターのソロが入ると、瞬時に黄昏ゆく昭和の新宿駅裏の風景が網膜スクリーンに投影される。船村演歌の真骨頂である。
 語り掛けるように、叙情たっぷりに物語られるこの歌は、まさに、ちあきなおみならではであるが、演歌らしくなく、子守唄であるかのように感じられる。
「想い出してね・・・・時々は」
 歌詞の末尾、ちあきなおみはためにためて、想い出を引き摺るように歌い伸ばす。このことで、過ぎゆく時代に向けた郷愁と未練が心の中に募ってゆき、一曲の歌を長編叙情詩のように変えてしまう。計算された歌唱のテクニックではあるものの、その歌声は見事に情趣を伝えてくる。これは歌詞をそのまま歌うのではなく、ちあきなおみの感性によって、歌詞にはない言葉が創生され、歌詞的な文脈を超えた領域で表現されているからであるだろう。
 今まさにステージ上では、歌謡曲の極致に達する、当代きっての歌姫・ちあきなおみの独壇場が展開されているのだ。

〔ラ・ボエーム〕
(作詞・作曲・Jacques Plante・Charles Aznavour 訳詞・なかにし礼)
 ステージ上手より、アコーディオンを抱えた流しが登場する。その切々と奏でられる音色に、場内は雰囲気を変える。
 ここは、パリのモンマルトルである。
 下手より、漆黒のロングドレスに身を包んだちあきなおみが、真紅の花一輪を手にして登場する。その容姿からは香水の匂いが漂ってくるようで、観客の視覚に陶酔を添える。
 このステージの照明を担当しているベテラン技師は、黒装束の憂いを帯びた姿を夢中で照射しながら思った。
「本物だ。スター歌手の条件は、やっぱりビジュアルなんだよ。こういう雰囲気がサマになってしまうのは、この人と山口百恵くらいだ」
 再び、ちあきなおみシャンソンである。
 きれいだった二十歳の頃の愛と夢を追想しながら、歌は淡いため息を漏らすように奏でられてゆく。このあたりで、大人の女の艶が表情にあらわれる。その背景には、若い女には醸し出すことのできない〝哀〟があり、息苦しくなるほどの色気が漂っている。
「ラ・ボエーム 根のない草花・・・・」
 若き日々の帰らぬ夢。女はある日、想い出の街角を訪ねるが、なにひとつあの頃の残骸を見つけることはできない。
 ここで、手に持った花一輪が意味を帯びてくる。根のない花、これはあの頃の儚い夢。
 ラストシーン、ちあきなおみは、愛おしく懐かしむように花にそっと口づけ、天にかざし、帰らない一抹の夢を、捨てた。

〔アコーディオン弾き〕
(作詞・作曲・Michel Emer 訳詞・美輪明宏)
 つづいて、パリの裏町のお話となる。
 この歌は、スタンドマイクでの歌唱となり、ちあきなおみ自身が主人公の街の女・マリーの恋物語を語る。
 アコーディオン弾きとの時代に引き裂かれた恋と夢。
 歌のはじめ、やや冷たい口調で突き放すようにマリーの身の上を語るが、徐々にメロディーに乗って高揚してゆき、アコーディオン弾きが奏でる音色に心が高鳴ってゆくマリーの心情を歌う。その振り幅ある表現に、ちあきなおみがマリーに同化してゆくのか、それとも、語り手自身が年老いたマリーなのか、との妄想が矢継ぎ早に浮かんでくる。
 歌はスクリーンに映し出された古いフィルムのように、マリーの恋の情熱と痛みを刺すように心に伝えてくる。いったいこの話はどうなるのか、との思いに駆られ、思わず身を前に乗り出してしまうほどの迫真さが会場を包み込んでいる。
 歌のラスト、突然、アコーディオン弾きの死が語られる。
 ちあきなおみは目を閉じ、両手を宙に広げ、別の男が弾くジャバを聴いてアコーディオン弾きがふたりの幸福を奏でる姿を脳裏によみがえらせるが、徐々に狂乱状態に陥り、両手で顔を覆ったまま、絶叫して果てる。身体が打ち震えてくるような、衝撃のパフォーマンスだ。
 その余韻を打ち消すように、ステージは暗転となる。

〔喝采〕
(作詞・吉田旺 作曲・中村泰士) 
 藍より出でた青色のロングドレスに、四度目となる最後の衣装替えをしたちあきなおみが、人生のエンディングテーマのような前奏に招かれ、喝采の中に帰ってきた。
 古の時代から、人は空と海の色褪せない青色に、未来永劫変わることのない誠の心を見るという。
 藍より青し衣装に身を包んだ生涯最後の「喝采」は、スタンドマイクによる歌唱である。
 一九七二(昭和四七)年、「第十四回日本レコード大賞」大賞受賞以降、二十年という時の経過は、「喝采」を独り立ちさせるための時間だったのであろうか。「この歌を超える歌が欲しい」という、ちあきなおみのスター歌手としての本能的な希求は、そのことを逆証明しているかのようである。
 「ちあきなおみ」と「喝采」。
 恩讐合い糾うかの如く歌手と歌の最後の対峙は、なにもかもが削ぎ落とされ、まるで波のせせらぎを聞いているかのような妙なる調べを奏でている。
 身体をほぼ動かすことなく、淡々と歌い込まれてゆく「喝采」は、これまでとはまったく違う、叙情的な詩歌のようだ。そしてその表情は、荘厳で神秘的でさえある。
 歌の終わり、ちあきなおみは「喝采」が天に召されるように、両手を組み、遠く、どこまでも高く仰ぎ、歌を見送った。

〔TOKYO挽歌〕
(作詞・吉田旺 作曲・杉本眞人)
 そして、観客の喝采を振り切るように激しいサウンドが耳をつんざくと、ロックテイスト溢れる〝焔歌様〟である。
 稲妻のように切り込んでくるギターを煽り返し、身体を前後左右に激しく揺さぶり、腰でリズムをとりながら音に身を乗せてゆく。怖いほどに伸びてくる声量で歌われるちあきなおみのロックは、ロック歌手には歌えない。
「ステージ終盤にこの歌を入れ込んでくる構成は、四四歳のちあきさんにとって少し過酷ではなかろうか・・・・」
かねてから付き人は思っていた。しかしここまできても、息は少しも乱れることなく、一音たりとも外さない。「凄いな、やっぱり・・・」と、舞台袖で感嘆していると、付き人は思わず「危ない!」と声を上げた。
 ステージでは、ちあきなおみが歌の途中、センター位置から上手前方へと、疾風のように小刻みなバックステップで移動したのだ。なにしろロングドレスに高いヒールを履いている。もしここで足の自由を奪われたら、そのまま後ろ向きに転倒してしまう。しかし、そんな杞憂を吹き飛ばすようにピタリとポジションよく客席に向き直る。付き人はホッとすると同時に、「もうやめてほしい」と思った。だが、予想どおり、ちあきなおみは再度、下手側へとステップを繰り返した。ステージ開始から、たったひとりで歌い、演じ、踊り、二時間。このアグレッシブな動きに、やはり常人離れしたプロの気迫を付き人は感じていた。
「足腰もだんだん弱ってまいりまして・・・」と言って、ぜえぜえと息を吐きながら、ちあきなおみは観客を笑わせた。
 しかし、これだけのジャンルの歌を、付焼き刃ではなく、本格的に一回のステージで聴かせることができる歌手がいるだろうか。
 この、夢幻の如くステージは、歌手・ちあきなおみが描いた理想、歌手とはかくあるべきだという、ちあきなおみ路線のイデアを雄弁に物語っているのだ。
 ステージ上の世界風景が猫の目のように移り変わってゆく中で、観客はあらゆるときのちあきなおみを、その時代の追憶とともに、己が人生を歌世界の中に脳内再生させているに違いない。
 そして、この場所に集うすべての人のベクトルは、最後、この歌に集約されてゆく。

〔紅い花〕
(作詞・松原史明 作曲・杉本眞人)
 ちあきなおみの一番新しい歌、そして、最後の歌である。
 切なく、儚く、静なる中に激しい想いを打ち明ける男のエレジーを歌い、ちあきなおみは黄昏ゆく。
 今、恋も、夢も、すべてのものが夕日のように沈んでゆく。私は、時代と歌の狭間で、たったひとつの愛のために歌った。泣いてはいけない。いつものように遠くを・・・・、遠くを。なにもかもが霞んで、きれいだ。

 一瞬、悔しさを滲ませた表情を見せた。
 スポットライトが徐々に薄れゆき、ひとりの歌手の姿が消えてゆく。
 ちあきなおみは、マイクをゆっくりと口際から離し、息絶えるように、下ろした。
 そのとき、客席から悲鳴のような声が上がった。
 二度と帰らぬものは、美しい。

 一九九二年七月四日 市川市文化会館
 歌手・ちあきなおみは、その生涯の幕を閉じた。
 そして、〝歌姫伝説〟の幕が開く。
                 完

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