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ちあきなおみ~歌姫伝説~3 夜へ急ぐ人・前篇

 一九七七年十二月三一日、ブラウン管に映し出されたある衝撃的な光景が、その後私の心の中に強烈な残像を刻みつけた。
 そのテレビ番組は、年末の締めくくりと言われる「NHK紅白歌合戦」である。
 ちなみに第28回を迎えたこの年のテレビ視聴率は、関東で七七%(ビデオリサーチ調べ)を記録している。
 SNS時代の現代から見れば驚愕的な数字だが、当時はまだテレビ全盛時代の真っ只中にあり、大晦日は家族揃って紅白を見る、という時代だったのだ。
 このとき十歳の小学生であった私は、自宅に親戚や知り合いの家族が集まり、一年の終わりをお祭り気分の中で過ごしていた。
 当時の紅白は夜九時からの放送で(一九八九年、平成元年から二部構成により七時台から)、子供にとっては前半戦を見るのが仕事であり、後半戦は子供心にも大人の時間といった認識を持っていたように思う。
 前半戦、私は男子らしく、であるかどうかはわからないが紅組を応援し、白組の歌、狩人「あずさ2号」(作詞・竜真知子 作曲・都倉俊一)、森田公一とトップギャラン「青春時代」(作詞・阿久悠 作曲・森田公一)、松崎しげる「愛のメモリー」(作詞・たかたかし 作曲・馬飼野康二)などを外野で声を潜めて歌い、ピンク・レディー「ウォンテッド(指名手配)」(作詞・阿久悠 作曲・都倉俊一)、キャンディーズ「やさしい悪魔」(作詞・喜多條忠 作曲・吉田拓郎)、山口百恵「イミテーション・ゴールド」(作詞・阿木燿子 作曲・宇崎竜童)などを大人たちを背後にテレビの前に陣取り大声で歌った。
 紅白両軍応援ゲストで王貞治が登場したときは興奮きわまり、熱血野球少年にもどり、バットを持ってきて茶の間で素振りをはじめたのを覚えている。
 そして大人の時間、演歌が多くなったあたりから身体は舟をこぎはじめ、夢見心地に包まれた私の甘い気分に水を差したのが、ちあきなおみが歌う「夜へ急ぐ人」だったのだ。

 友川かずき(現・カズキ)作詞・作曲によるこの楽曲は、この年の九月一日に日本コロムビアより発売された、ちあきなおみ二六枚目のシングルである。

シングル盤ジャケット


 このとき私は、快いまどろみから覚醒され、別の夢へと誘われたのだ。
 テレビ画面には、これまでに聴いたことがない、歌謡曲でもなければ、フォークソングでもロックでもない、いったいなにが歌われて、なにが行われているのか、という蠱惑的な気分を喚起させる映像が映し出されていた。
 黒装束の衣装を、深紅の細い腰紐でからげたちあきなおみのパフォーマンスは、日常の背景としてある歌を目の前の空間へと引き摺り出し、歌への世界観を一気に倒錯させる危険な香りが漂っていた。子供心にも私は、長い黒髪を振り乱し手を差し出して歌うこの歌手に、大きな悲しみ、不安、虚無、焦燥といった、抑圧された負の感情符がすべて解放されたかのような"怒り"を感じていたように記憶している。
 そして、テレビ画面の中に感じた梢が揺らぐような会場のざわめき、私の背後にいた大人たちの、確かに聞こえたどよめきの渦の中で、私は見てはいけないものを見てしまったかのような、この歌手とのあいだに、ふたりだけの会話が成立したかのような、ある種の快感さへ覚えていたのだ。
 ちあきなおみの歌唱後、和やかな会場のムードを一変させた熱の籠ったこの歌に虚を突かれ、受けとめる構えも覚悟も持ち合わせなかった、当時NHKのアナウンサーで白組司会の山口静男は、「なんとも気持ちの悪い歌ですねえ」と、返り血を飛ばされたかのようにカバーする言葉が見つからないままコメントした。
 しかし私にとっては、虚構と現実を区別することができないもうひとつの世界、それは、歌との出逢いだった。

 数年後、中学生になった私は、このとき見た幻想的な景色を再びよみがえらせる光景を目撃した。
 それは、NHKで放送されていた若者向けの公開音楽番組「レッツゴーヤング」で、東京キッドブラザースを見たときだった。
 東京キッドブラザースは、寺山修司や横尾忠則らと演劇実験室・天井桟敷を結成し、退団した東由多加が、一九六八(昭和四三)年に創立した日本のミュージカル劇団である。
 私は一九八七(昭和六二)年、研究生として劇団に入り、その後、東由多加の演出助手を務めることになる。
 キッドは"愛と連帯"を綱領に掲げ、青春の怒りと哀しみと歓びを描き、歌を武器として、アメリカやヨーロッパなどにも進出した。
 一九七〇年代後半から一九九〇年代初頭にかけて、劇団としては圧倒的な観客動員数を誇り、日本武道館、日生劇場、後楽園大テント、新宿コマ劇場などで公演を実現させ、当時、全国ツアーを行うほどの人気劇団だった。
 番組のステージで、キッドは他の出演者であるアイドルたちが奏でる明るく楽しいムードの中、時代という風車に立ち向かうドン・キホーテ的なアイデンティティを見せたのだ。
 テレビ画面に映ったのは、リーダーの柴田恭兵をセンターポジションに、横一列にメンバーが十五人ほど並び、歌のようなものを叫んでいる光景だった。
 この多人数で歌うスタイルは見る限り、合唱でもなければ、バンドでもないし、アイドルグループにも見えない。私は思わず目を瞠ると、胡散臭げに眺めて素通りできない、身体が凍り付いてしまうほどの展開を見せはじめた。
 メンバーたちは、ステージ中央から前へ前へと、手を差し出しながら客席へ歩を進めてくる。そして、カメラがひとりひとりの顔をアップで捉えはじめると、私はハッと息をのんだ。
 全員が泣いているのだ。中でも柴田恭兵はだれよりも泣きじゃくり、叫び、自分自身を剥き出しにして、なにかをアジテーションしているかのように見えた。
 私には、歌って泣く、ということが解せなかったし、なにごとにも、熱く燃えることも怒りを込めることもなく、ただの傍観者のような"しらけ世代"に属する当時の若い視聴者には、この光景は滑稽に見えたに違いないのだ。
 しかし、このキッドのパフォーマンスは、「夜へ急ぐ人」を見て火がつき、消えることなく導火線のようにじりじりと燃え進んだ炎が、私の身体の雷管に点火したことは疑うべくもない。
 ちあきなおみと東京キッドブラザース、この些か奇妙な取り合わせが、"怒り""泣く"という激情のキーワードを交差させ、歌という物語で私の青春の季節を彩ることとなったのだ。
               つづく


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