【エッセイ】怪談的思考

私はいわゆる実録怪談というものを書いている。このジャンルだけで単著が13冊、共著が30冊くらいあって、たぶん同ジャンルの書き手の中でもわりと多いほうじゃないかと思う。それくらい数を書いているにしてはほとんど無名に等しいけれど、怪談の中でも書いているものが偏っているというか、読む人によっては全然怖くないとか、ピンとこない、意味がわからないと思われることも多い作風にその理由の一端はあるかもしれない。

私が怪談を書く姿勢に持ち込んでいる「偏り」というのは、ではどのようなものか。ごく乱暴な言い方をすれば、私は怪談を書くとき「幽霊というものはたぶんいないんじゃないか」という姿勢を取っているのだと思う。これは私自身が普段どう考えているか、というのとは別のことだ。怪談を書くうえで、幽霊はたぶんいないだろう、ということをひとまず仮の前提にする。すると、いわゆる幽霊らしきものを見たという体験談を話にするときになんとも落ち着きの悪い感覚が襲ってくる。そこでたとえば何か合理的な説明をつけてやろう、という態度に出ると怪談ではなくなってしまうだろう。そうではなく、あくまで「わたしはたしかにそれを見た」という話がこれから書こうとする文字にじかに貼りつくことを受け入れつつ、その文字が幽霊という形を取ろうとすることをやんわり拒んでいく。そんな感じ。

幽霊というのはひとつの説明である。死んだはずの人が目の前にあらわれた。それは死者の肉体が滅びたのちも残るなにがしかのものがあり、それを見たのだ、という説明だ。それに対して、死んだはずの人を見たのは幻覚であって、これこれこういう条件で人は幻覚を見るものであり、そこには実体のあるものは何もなかったのだ、という説明がもう一方にはある。

こうした説明と説明の間にある、もっと煮え切らない、自信なさげで途中ですぐに道筋を見失ってしまうような、曖昧な言葉のうえをふだん私たちはおもに歩いているのだと思う。曖昧な道筋だから私たちが歩いたあとには残らず、足の裏が離れるそばからたちまち消えてしまう。一度歩いたら二度は歩けない道。それに近いものを、文章という印刷されて半永久的に残ってしまうもので「再現」するのは本当は無理なはずだけど、ある種の目の錯覚を利用してならまるで「再現」しているように見えることはあるかもしれない。

そもそも言葉が現実を「再現」しているように感じるのも目の錯覚だと思う。その延長に、現実であるはずのない現実、の「再現」が起こる。いるはずがない幽霊を見てしまう、という出来事を言葉が再現することで、いるはずがないという前提が否定されてしまったのではそれは再現の放棄になるし、目の錯覚への裏切りだ。言葉がもたらす目の錯覚は人間よりもむしろ幽霊の再現に向いていると私は思う。いるはずがないのにいる、というのはまさに言葉に描かれた存在特有の現れ方だからだ。

幽霊というシールで覆われた部分に世界の重要な秘密の覗く穴があいている、という直感のようなものがある。この感覚を絶対視して臨むものが私にとって怪談というジャンルなのかもしれない。ただ姿を見せる以上のことはほとんどなく、たいてい無力に等しいものとして語られながらそれでも幽霊があんなに怖ろしいのは、底無しの穴の入口でゆらめく暖簾のようなものだからではないか。少なくとも典型的な日本の幽霊、つまり怪談的な幽霊は穴の目張りとしてはとうてい頑丈なものとは思えない。幽霊の存在感を限りなくうすめていった先に、怪談は穴の輪郭をふちどる言葉に近づくかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?